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横須賀・三浦 コラム

公開日:2025.08.01

三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜
第5回文・写真 藤野浩章

  • 浦賀奉行所跡

 浦賀コミュニティセンター分館の郷土資料館に展示してある、浦賀奉行所周辺の居住図。これを見ると、与力になった後の三郎助の家は、奉行所からすぐの位置だ。事件が起きると直ちに奉行所に駆けつける場面が本書に何度か出てくるが、家を飛び出してから奉行所の門までは歩いても1分とかからないだろう。

 さらに船を検査した「船番所」は現在の浦賀病院のあたりというから、半径3百mくらいの範囲に奉行所の機能が集約されていたのだ。

 もともと、浦賀奉行所は下田奉行が移転して誕生したが、役人たちの住宅を含めて広大な土地が必要だった。しかも幕府は「港の中央付近に船番所を置く」「奉行所を船番所の近くに」などの条件を定めて浦賀湾の東西を視察した。ところが、すでに物流の要として繁栄していた浦賀では問屋の商いが盛んで、そこに広大な施設を置くというのはなかなか迷惑な話だったろう。実際にさまざまな抵抗があったようで、紆余(うよ)曲折の末19軒を移転させる形で土地を確保したという。

 奉行所だけで東西86m、南北75mの広さ。1720(享保5)年12月に開設され、ここから浦賀の街はまた新たな活気に満ちていくことになる。

 さて、何だかタイムスリップしたような気分に浸りながら奉行所にたどり着くと、知ってはいたものの、だだっ広い空間があるだけだった。

 ここには昭和から平成にかけて浦賀ドック関連の集合住宅が建っていて、当時の名残は堀の石垣と、門に至る石橋の一部だけだという。数々の偉人が駆け抜け、経済に加え外交や国防の拠点にもなった浦賀奉行所。今の姿は、やはり寂しい。

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