横須賀・三浦 コラム
公開日:2025.08.15
三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜
第7回文・写真 藤野浩章
与力や同心の職は世襲制ではなかったが、親の退職後に奉行所に入ることが通例で、子が14、15歳頃になると見習いとして働き始めることが多かったという。三郎助も例外ではなく、幼少期から槍(そう)術、砲術、剣術を学んだほか、父・清司(きよし)から俳諧(はいかい)や和歌も教わるなど、文武両道の"英才教育"を受けていた。
そして14歳になった1835(天保6)年に晴れて出仕することになるが、2年後、歴史に残る衝撃的な2つの事件に触れることになる。
その1つは、大塩平八郎の乱。当時は天保の大飢饉の影響で全国的な米価急騰となり、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発する不安定な時期だった。そんな中で「救民」を掲げた大塩らが決起し、豪商らを襲ったのだ。
この乱と浦賀は直接的に関係しないが、反乱を起こした大塩は元与力で、奉行所の現役与力も参加していたこと、そして幕府の重要直轄地であった大坂で起こったことは、たちまち浦賀にも伝わっただろう。しかも当初は大塩が逃亡していたから、治安維持の観点でも緊迫した状況になったかもしれない。
船番所で江戸へ出入りする船を調べる浦賀奉行所は、人や物資の流れを把握できるうえに、船乗りらとの会話から、世の中が今どんな状況になっているのかを容易に推察できる立場にあっただろう。ただでさえ米の"異変"を感じていたところへ、重要地の元役人による反乱が起こったのだ。その噂で奉行所はもちきりだったに違いない。それを聞いて、若き三郎助は何を感じただろうか。
さらに5カ月後、2つめの事件が起こる。異国船が突如として、浦賀沖に現れたのだ。
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