横須賀・三浦 コラム
公開日:2025.08.22
三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜
第8回文・写真 藤野浩章
アメリカの商船モリソン号が浦賀沖に現れたのは1837(天保8)年6月28日昼前のこと。
突然の来航に上を下への大騒ぎかと思いきや、むしろ奉行所は慣れていた。"ジャパン・グランド"と呼ばれた鯨(くじら)の良漁場を求めて、日本近海へ外国船がたびたび来ていたのである。
しかし問題は寄港した場合の扱いだ。当初は薪(まき)や水、食料を与えて帰ってもらう決まりだったが、その数があまりに多かった。しかも来航の度に地域で大規模な動員が行われて警備をするため、財政的な負担も馬鹿にならない。おまけに各地で無断上陸やキリスト教を布教する外国船も出現。そこで登場したのが「異国船打払令」だった。外国船は問答無用で追い払え、というのだ。
モリソン号に対し、浦賀奉行所はその規定に従って粛々と対処した。トップの太田資統(すけのり)自らが、現在の千代ヶ崎砲台跡に隣接した平根(ひらね)山台場に陣取り、16歳だった三郎助は観音崎台場で砲撃に参加していた。
防戦一方のモリソン号は野比沖に退避するが、ここでも砲撃を加え、さらに船を出して撃つという念の入れよう。ついに"打ち払う"ことに成功したのだった。
しかし後にとんでもない事が発覚する。実は同船は、難破した日本船の乗組員を送り届ける目的で来航したのだった。
この処置をめぐり、批判派を弾圧する事件(蛮(ばん)社(しゃ )の獄)にまで発展する。さらに大塩の乱に続いて各地で一揆や打ちこわしも頻発。内にも外にも問題を抱え、幕府の根幹が揺れ始める。
そんな中、元服(げんぷく)を迎えた三郎助は、江戸幕府の役人として順調に歩みを進めていた。
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