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横須賀・三浦 コラム

公開日:2025.09.05

三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜
第10回文・写真 藤野浩章

  • 浦賀湾を望む

「合図の砲声じゃ。ビッドルの時もあったではないか」(第一章)



 本書には度々ビッドルの来航を回想するシーンが出てくるが、冒頭のセリフは後のペリー来航時に三郎助の父・清司(きよし)が発したもの。それだけ1846(弘化3)年閏(うるう)5月のビッドル来航は衝撃的だった。

 この時、すでに「異国船打払令」は無くなり、来航船には物資を与えて帰ってもらう「薪水(しんすい)給与令」に戻されていた。この転換には、1840年に勃発したアヘン戦争が影響していた。アジアの大国・清(しん)がイギリスに敗れ、香港を割譲する事態になったのだ。

 今後は商船や捕鯨船でなく"軍艦"を相手にする事になる。それは一歩間違えば戦争となり、外国の侵略を招きかねない。しかもイギリスは清と不平等条約も結んでいて、アメリカもそれに続いていた。清が、欧米列強の"草刈り場"になろうとしていたのだ。そんな中でビッドルは、清と同じような条約を日本と結ぼうと来日したのだった。そしてこの来航の情報は、事前にオランダから日本にもたらされていた。

 ついに、来る――

 幕府の緊張は、当時海防の強化のため三浦半島のほぼ全部を領地として守っていた川越(かわごえ)藩と、房総半島を担当していた忍(おし)藩に対して藩主自ら前線に出陣するように命じた事にも表れている。これは一九九年ぶりだとか。さらに江戸湾周辺の各藩にも命じ、地域住民も含めて数万人規模、最大級の大動員となる。

 その中で、各藩と連携しながら異国船と対峙(たいじ)したのはもちろん浦賀奉行所。この時25歳になっていた三郎助は、死を覚悟する。

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