戻る

横須賀・三浦 コラム

公開日:2025.09.12

三郎助を追う〜もうひとりのラストサムライ〜
第11回文・写真 藤野浩章

  • 浦賀番所跡から望む浦賀湾口

 ペリー来航の7年前に浦賀にやって来たビッドル艦隊。コロンバス号とヴィンセンス号の2艘の軍艦で浦賀沖に現れたが、これに対して幕府は史上最大とも言える非常警戒体制をとる。

 というのも、その戦闘力の高さに驚愕したのだ。たった2艘ではあったが、後のペリー艦隊と比べて兵員は約1・8倍、大砲等の火力は約1・7倍。一方で、江戸湾周辺に配置した幕府の大砲は全部足してもコロンバス号1艘にも満たなかった。

 その火力差を、三郎助はほぼ正確に掴んでいた。当時25歳で与力見習いだったが、それまでにいくつかの流派で「砲術」の免許皆伝になるほど、若くして武器のスペシャリストになっていたのだ。

 その彼が後に義兄に宛てた私信には「五貫目以上之大筒(おおづつ)八十三挺(ちょう)」などと詳細を記載している。実際にコロンバス号に搭載されていた大砲は五貫目を超える42ポンドで口径約176ミリ相当だという。この時期各国で流行したカロネード砲で、圧倒的な火力から「粉砕者」というあだ名が付いていたとか。いずれにしても、江戸湾の台場にある一貫目前後の砲とは比べ物にならなかったのだ。

 この砲が火を噴いたらどうなるか。三郎助は前述の手紙に「少しも眠ることができなかった」「討死(うちじに)を覚悟した」と書いてあり、その衝撃の大きさがよく分かる。

 一方ビッドルとの交渉は与力である父・清司(きよし)らが担当した。彼こそ船と軍備を熟知した人物。三郎助の分析には、清司が間近で見た情報も加味されていたに違いない。

 こうして親子で立ち向かった危機は、意外な形で幕を閉じる。

    ピックアップ

    すべて見る

    意見広告・議会報告

    すべて見る

    横須賀・三浦 コラムの新着記事

    横須賀・三浦 コラムの記事を検索

    コラム

    コラム一覧

    求人特集

    • LINE
    • X
    • Facebook
    • youtube
    • RSS