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横須賀・三浦 コラム

公開日:2025.09.19

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第12回 文・写真 藤野浩章

  • 海から見た浦賀番所跡

「ビッドルの時は恐らく物見のための来航で、この度は本腰を入れてやってきたように思えるのじゃ」(第一章)



 これはペリー来航の場面で、父・清司(きよし)が発した言葉だ。

 巨大な軍事力で浦賀へやって来た艦隊を「城のようだ」と評した記録もあるくらい衝撃的な登場だったビッドル。奉行所は与力と通詞(つうじ)(通訳)を派遣し、アメリカが通商を求めていることがはっきりする。

 そしてビッドルから手渡された文書が浦賀奉行から江戸へ送られ、幕閣による検討ののち奉行所へ返答が届き、ビッドルに伝えられた。この間、実に8日ほど。もちろん浦賀奉行所には交渉の権限が無いので、ある意味"伝書鳩"の役目だ。このタイムラグが後のペリーとの交渉で1つのポイントになる。

 ようやく届いた幕府からの返答は、外国との「通信・通商は国禁」で、「交渉は長崎でのみ行うこと」とされているのですぐに退去するように、というものだった。

絵に描いたようなゼロ回答を伝えた与力たちは緊張しただろう。一触即発の事態になりかねない状況で、最前線で守りを担当した三郎助らはまさに眠れぬほどの緊張状態だったというわけだ。

 しかしビッドルは、二日後に浦賀を後にした。日本側の意思は予想通り----。まさに"物見"の来航だったのだ。ちなみに幕府は、薪に加えて卵3千個、小麦2俵、梨3千個、ナス2百個などをプレゼントしている。

 こうして10日間の危機は終わったが、安心している場合ではなかった。ペリーの登場よりずっと前から、幕府の闘いは続いていたのだ。

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