横須賀・三浦 コラム
公開日:2025.09.26
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第13回 文・写真 藤野浩章
「ご老体は、ビッドルの来航以来しきりに大型軍艦の建造を唱えているではないか」(第二章)あ
◇
ビッドル・ショックとも言える事態を経験して、幕府は手を拱(こまね)いていたわけではない。
その指揮を執っていたのが、阿部正弘。天保の改革で知られる水野忠邦の失脚後、弱冠27歳で老中首座となった。幕府は、若きエースに未来を託したのだった。
ビッドルが去った直後の1846(弘化(こうか)3)年8月、阿部は海防掛目付の松平近(ちか)韶(つぐ)に命じて浦賀周辺の防備を調査させた。後に三郎助と長崎で交わることになる木村芥舟(かいしゅう)(喜毅(よしたけ))によると、松平は相当なキレ者だったようで「僚輩を壓倒(あっとう)して気炎を逞(たくまし)うする」ような人物であったとか。何だか小栗忠順(ただまさ)を彷彿とさせるが、国の危機を前にして、幕府は従来の慣例にとらわれない積極的な人材登用をしていたように思われる。そこに三郎助は身を投じて行くのだ。
さて、視察の後で松平は「日本の船大工だけで洋式軍艦の建造はできないか」と浦賀奉行所に問いかけた。これに対し、父・清司(きよし)らは「(オランダの力を借りず)日本人だけでは難しい」と上申書で回答している。仮にできたとしても、洋式軍艦を操船するのにもオランダ人がいないとできないというのだ。しかしその代わり"船上から大砲を撃てる大きさの和船を日本人の手で建造する"ことを提案している。
冒頭のセリフのご老体とは父・清司のこと。この後も再三に渡って主張される国産大型軍艦の建造は、中島父子の切実な訴えだった。その思いは、松平を通じて阿部正弘を動かしていく。
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