横須賀・三浦 コラム
公開日:2025.10.03
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第14回 文・写真 藤野浩章
ビッドル来航後の海防強化策の一環として、江戸湾を守る大名の配置にも変化があった。
これまでの川越藩、忍(おし)藩に加えて彦根藩と会津藩が加わり、三浦半島の東と北側を川越藩、南と西側を彦根藩、房総半島を忍藩と会津藩が担当。そして浦賀周辺を浦賀奉行所が守ることになった。いわゆる"御固(おかため)四家体制"だ。実際のところ彦根と会津は「家格が合わない」と不満だったようだが、「溜間詰(たまりのまづめ)」という将軍に直接意見が言える家柄だけに、重大な責任を負わせたというわけだ。
彦根藩では後に大老となる井伊直弼(なおすけ)が不満を漏らす文書が残っているが、それでも上宮田(かみみやだ)や三崎の陣屋、安房(あわ)崎(城ヶ島)、荒崎、剣(つるぎ)崎などの台場を担当。また川越藩は観音崎周辺のほか、猿島台場も築造した。その猿島への拠点となったのが、大津陣屋。今は学校や運動公園がある広大なエリアに千人以上が住み、商業も賑わったという。しかし各藩とも自腹の進駐で、財政は相当厳しかったようだ。
一方、浦賀奉行所には異国船の応接を専門とする「応接掛(がかり)与力」が新設される。異国船が来たときの対応をマニュアル化し、ネゴシエーター(交渉人)としての与力を据えたのだ。
加えて、再三にわたって要望していた船の建造が始まる。大型船が必要とする老中・阿部正弘の肝いりで試作が許された「蒼隼(そうしゅん)丸」。スループと呼ばれる、西洋式の2本マストを持つ小さめの船だが、この時の中島父子と船大工棟梁・粕屋勘左衛門(かんざえもん)との絆が、後の大仕事に繋がっていく。
そんな中、三郎助がついに正式に与力となる。28歳の時だった。
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