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横須賀・三浦 コラム

公開日:2025.10.17

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第16回 文・写真 藤野浩章

  • 西浦賀・船番所跡

「蒼隼(そうしゅん)丸と晨風(しんぷう)丸を造った二人のことじゃ、無理な話でもなかろうと思うがの」(第二章)



 ようやく竣工したものの、試し乗りのわずか1カ月後、何も活躍しないまま全焼するという悲劇に見舞われてしまった蒼隼丸。しかし翌嘉永4(1851)年に復活することになった。それが晨風丸だ。

 幕府に再三頼んで造ったが焼失させてしまうという不祥事。しかし、こんなに早く再建されたのには、ある商人の尽力があったという話がある。大矢弥市(やいち)だ。

 大矢家は栗原村(現・座間市)で古くから大規模に米作などを行っていた。やがて農産物の卸商を始めて大きな利益を上げ「栗原御大尽(おだいじん)」と呼ばれていたとか。有力大名にもお金を貸すほどの豪商だったという。

 代々「弥市」と呼ばれた中でも5代目が、西浦賀・蛇畠(じゃばたけ)で農閑期に穀物卸の出稼ぎを始めたのは嘉永3(1850)年のこと。丸屋という屋号だった。幕末には約三百軒の商家があったという商業の拠点に進出できたのは、地元の有力商人が親類で、その手引きがあったからという説もある。いずれにせよ、商人がひしめく浦賀で、弥市は商いを始めたのだ。

 そんな矢先に起こったのが、蒼隼丸を焼いた火災。その時弥市は、大胆な行動に出る。なんと、軍船を造る費用を寄付したい、と奉行所に申し出たのだ。

 冒頭のセリフは、後の「鳳凰丸」建造に当たってのもの。この時の連続した船造りが、結果的に浦賀組に大きな経験をもたらしたのだ。そしてその元になった弥市は、ペリー来航でも大きな活躍をすることになる。

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