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横須賀・三浦 もうひとりのラストサムライコラム

公開日:2025.10.31

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第18回 文・写真 藤野浩章

  • 安房埼灯台から松輪方面を望む(城ヶ島)

「どうやら厄介者が現れたようじゃ、暫(しばら)く戻れぬかもしれぬ」(第一章)

     ◇

 嘉永(かえい)6年6月3日、西洋暦では1853年7月8日。本書では「裏山でははや蝉の声がしきりで、暑い一日になりそう」な日、騒動の始まりは城ヶ島だった。昼頃、4人の漁師が松輪(まつわ)村沖を航行している艦隊を発見。彼らは命じられていた通り、三崎に詰めていた浦賀奉行所の役人に通報した。午後1時頃のことだ。すぐに早馬が走り、警備船が出動。三浦半島は次第に騒然となっていく。

 午後5時、浦賀湾で艦隊が錨(いかり)を下ろすと、台場から異国船発見の合図である狼煙(のろし)が上がった。ちょうど役宅でその音を聞いた三郎助が発したのが冒頭のセリフ。ここからの怒涛の10日間で、彼は歴史の表舞台に登場することになる。

 実はアメリカ政府は、3年前から周到に準備を進めていた。領土がついに太平洋まで到達し、日本に関心が高まっていた時期。北太平洋横断航路を計画する実業家もいたというが、とりわけ重要だったのは捕鯨。多くの船が出漁すると遭難のリスクが高まり、日本に漂着する可能性が高くなる。その時に非人道的な扱いをされないように...つまり自国民の保護というのが通商条約の主目的だったという。この声の高まりを受け、海軍長官はペリーに計画を依頼。こうして軍艦で圧力をかけて開国を迫るというプランが進んでいく。

 そしてこの恩恵は西洋諸国にももたらされるべきという考えもあり、オランダが情報を幕府に伝えていたのだ。それがどこまで伝わっていたかは分からないが、三郎助ら現場の与力たちには寝耳に水のことだった。

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