横須賀・三浦 コラム
公開日:2026.01.01
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
番外編 文・写真 藤野浩章
日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」が竣工したのが安政元(1854)年5月のこと。その約1年後に、もう1隻の洋式船が進水していた。
◇
ここでの主役は、ロシアのプチャーチン提督。ペリーに続いて条約締結の交渉に来た下田で大事件に遭遇してしまう。
同年11月4日の朝、M8・6の揺れが駿河湾付近で発生。当時「寅の大変」と呼ばれた安政東海地震である。本書によると「震動と津波のため家々の殆どが全壊して流出し、下田は潰滅」だったという。これで乗ってきたディアナ号が損壊し、西伊豆の戸田(へだ)村で修理することになるが、何と途中で荒波に襲われて浸水、沈没してしまった。こうしてプチャーチンとロシア人五百名は帰国の術(すべ)を失ってしまうのだ。
◇
三島から車で1時間ほど。港から内陸の山にかけて細長く市街地が広がる、戸田の街にたどり着く。ここの名物は世界最大の節足動物と言われるタカアシガニ。旅館や料理屋の看板にはどこも巨大なカニが描かれていて、これを楽しみに訪れる人も多いだろう。
広い湾の一角に、ドック跡を示す碑が建っていた。幕府はロシアへ帰国する船の建造を許可し、ここで日本側も参加して初の日露共同での造船が行われた。工期は何と3カ月。「ヘダ号」と名付けられた洋式帆船で、彼らは無事に帰国することができた。突貫工事の裏側には、五百名のロシア人の扱いに困ったという事情もあっただろう。
◇
三郎助は、船大工の勘左衛門とともにヘダ号を視察して「南豆(なんず)紀行」という記録を残している。本書では海路、鳳凰丸で戸田を訪れ外国船の襲来かと騒ぎになる件(くだり)があるが、実際には陸路で向かったようだ。
ヘダ号は江戸から銅のボルトを取り寄せるなど苦労して部材を集めたが、鳳凰丸は和釘を用い、随所に和洋折衷の工夫を凝らした。それゆえ純粋な洋式船ではないという評価もあるが、ヘダ号のように設計から技術指導までロシア人によって行われたのと違い、完全な国産技術で完成させた意義は大きい。
「旦那、わざわざ戸田くんだりまで来ることはなかったべ」と自信を覗かせる勘左衛門のセリフがあるが、それでも木の上を滑っていくヘダ号の進水式は目を見張るものがあったようだ。
◇
ところで、ヘダ号の建造に携わっていた地元船大工の一人が上田寅吉(とらきち)。彼は後に長崎海軍伝習所に入り、榎本武揚(たけあき)らとオランダに留学し、箱館戦争にも参加する人物。きっと三郎助と戸田で交友を結んだに違いない。ちなみに上田は明治維新後、横須賀海軍工廠の初代工場長になる。後に日本海軍の基礎をつくる2人は、洋式船の建造で頭角を現したのだ。
◇
少し南に下り、土肥(とい)金山近くからフェリーに乗ると、夕景のなか富士山のシルエットが見えた。きっと三郎助も富士を眺め、さまざまな想いを心に秘めたろう。しかしこれから訪れる運命は、彼の想像を遙かに超えるスケールでやって来る。
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