三浦 コラム三浦の散歩道
公開日:2012.03.09
三浦の散歩道
みうら観光ボランティアガイド協会
地蔵堂登り口の元へ帰って、道を右へ向かいます。やがて、前方に小高い丘が見えてきます。海辺の道へ突き当たろうとする直前の左側に石段があります。上の見晴らしまで、二十六段上がり、さらに七段、六段、七段と、のぼり、終わりの七段を上がると頂上です。それでも標高は十九メートルです。ここが、「歌舞島」です。かつては「兜島(かぶとじま)」とも呼ばれていたところです。『新編相模風土記稿』によりますと、鎌倉時代、三浦義村が春の彼岸に将軍夫人等を迎えて「来迎講(らいごうこう)」を催し、この地で音楽歌舞を行ったことで名がついたと言われています。
一段高い所に「表彰一九七七白石子ども会殿。社団法人全国子ども会連合会より」の碑に昭和五四年三月吉日建之と刻まれています。近くに黒松が二、三あります。石段を三十段下りますと、標高十メートルの標示が目に入ります。
そこには、「昭和五三年四月二九日、小村三千三を偲ぶ会これを建てる」と記された「歌の町」の楽譜が刻まれた石碑が人目を引きます。碑の裏に書かれた文章によりますと、小村三千三氏は、明治三二年、三崎町に生まれた作曲家で、東京音楽学校を卒業後、東京府立三中や、宝塚歌劇学校等の教職を圣て、ビクター、コロンビヤの専属になり、「歌の町」や「まっててね」、舞踊曲「智恵子抄」などを作曲し、昭和五〇年四月に病没されているという。夕方に市の放送で流れる「歌の町」の曲は昭和二二年、児童福祉法制定の記念につくられたもので、三崎の子どもたちを心に浮べ、三崎を舞台に完成させたものと言われています。碑面の詩曲は作者の自筆を拡大して刻されているとのことで、市民や全国からの拠出金で竣工されたということです。
小村氏は「三浦市歌」、「三崎港音頭」等の曲も作っています。毎年四月二十九日に「小村三千三を偲ぶ会」により「碑前祭」が行われています。碑の近くに、流麗な白衣の慈顔、温眼に魚の篭を持って南東に対して海上での漁撈の安全を加護しておられる「魚籃(ぎょらん)観音」が漁業関係者により、魚族供養を願って祀られています。
海側に下ると「白石区歌舞島会館」があり、道路側に二つの標識板が向かいあって立っています。一つは「関東ふれあいの道」に関してで、もう一つは「白秋文学コース」の表示です。北原白秋が明治四三年の暮春にこの地を訪れて作られた歌「いつしかに春の名残りになりにけり昆布干場(こんぶほしば)のたんぽぽの花」を紹介し、白秋歌碑建設の折り、白秋自身が最初に希望した歌であったことが説明されています。
道をへだてて埋め立てられた公園に行ってみましょう。「二町谷地区公園」と名づけられているのですが、園内には綺麗なトイレもあり、東(あずま)屋もあり、そこからの眺めでは、諸磯方面がよく見えます。静かなたたずまいをもった雰囲気の公園でもあります。
つぎに市営プールの横を通って見桃寺へ向かいましょう。
つづく
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