三浦版 掲載号:2017年12月15日号 エリアトップへ

連載 第6回「入江新田のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介

掲載号:2017年12月15日号

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陸地の中の波島か?
陸地の中の波島か?

 『新編相模風土記稿』の「下宮田村」の項のうちに、「湊(みなと)」として、「宮田湊」、「矢作湊」とあり、註して「也波紀美奈度(やはきみなと)、和田村小名矢作に相対す、故にこの唱(とな)へありしとも称す」とあって、「湊中孤島あり波島と号す、島中七面堂あり。」とも記載されています。

 当時は入江が深く入り込んでいたのでしょう。現在では埋めたてられ、大きな商業地となっていたり、海に近い方は、野草に覆われた荒地になっており、周囲を針金で張り、「関係者以外の立ち入りを禁ずる」旨の立札があるのみです。

 昭和三十年代には、国道一三四号線の近くまで入江であり、磯で貝などを獲った憶えがあります。『風土記稿』に記されているように「波島」がありました。その後西武が埋め立て、野球場が造られました。

 この入江は眺望も良く、「初声数えうた」の二番目に「二つとや 富士の高嶺もよく見えて 波島の入日の美しさ」とあります。

 江戸時代の元禄十六(1703)年の十一月二十三日未明に大地震が発生しました。推定のマグニチュードは7・9〜8・2程度であったと言われています。三浦半島の沿岸では、最大5・5メートルも隆起したところがあったと言われています。

 『若宮神社誌』(平成二年十二月「若宮神社建設委員会発行」)に、「この時期に特記さるべき大事業が始まった。即ち宝永五(1708)年から元文三(1738)年の三十年間に亘る入江新田の開発工事である。」と記載され、明治四十四年編集の『初声村誌』を引用して、次のように記されています。

 「初声小学校附近ハ海底ニシテ製塩業ヲ営ミシ家今猶存(なおそん)シテ塩屋ト称セリ、然ルニ今ヲ去ル元文三年前百七十四年、此ノ田ヲ山田儀左衛門氏アリテ之(これ)ヲ開拓シ耕田トセリト云フ、爾来(じらい)防波堤ヲ築キ水門ヲ設ケテ海水ノ浸水ヲ防グ」とあります。

 また、『新編相模風土記稿』の「入江新田」の項では次のように述べられています。

 「古は和田三村(註・本和田村・赤羽根村・竹之下村の三村を言う)に属する入江なり、寛永五(1628)年新墾の事を企(くわだて)元文三年其功成り、同十一月神尾若狭守春英検地して一村とす、和田郷に属せり」とあり、村の広さは十五町歩(約一五ヘクタール)とあり、戸数は二としています。現在でも地図上、「潮風アリーナ」側の「庄司川」沿いを一番地とし、「初声市民センター」近くを二番地としています。

 『三浦郡誌』(大正七年)では入江の地を開墾した山田儀左衛門は、横須賀太田和村(現・武の西方の地、太田和)の人で、父の惣左衛門の二代に渡る工事であったのです。

(つづく)
 

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