東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その6 番外編・団勝磨と井上成美
昭和20(1945)年8月15日、太平洋戦争終結の詔勅が下ります。
ここで話が逸れますが、この戦争を終わらせるため、密かに終結工作を画いたのは、主として海軍大臣の米内光政、井上成美(海軍中将のち大将)、高木惣吉(同少将)などでした。彼等はいずれも海外留学の経験があり、彼我の国力の較差を熟知していました。
ドイツのヨーロッパ侵攻後に興った、独・伊・日の三国同盟の動きについても強く反対したメンバーです(山本五十六も)。
彼等は日本が独・伊に都合良く利用されている存在であることを知っていたからです。特に井上成美はマインカンプ(アドルフ・ヒトラー著「我が闘争」)を原語で読む実力があり、そのことを明確に把握していました。その本の中で、ヒトラーは、日本人に侮蔑と、嫌悪感を示していたからです。邦訳はその部分を省略していました。
彼は海軍内で三国同盟に反対の旨、強い口調で意見書を上申しています。敗戦後、彼は団勝磨が居住していた横須賀市長井にあった別荘に文字どおり隠棲しています。
勝磨は昭和20年2月、東大実験所が海軍基地として接収された為、学研の場を失い、長井の自宅で同所の管理責任者的立場で暮らしていました。そして、敗戦直後の8月30日、海軍将校に呼び出され、米軍の先遣隊と対峙することになります。ここに米国内で著名になった「The last one to go」―最後に立ち去る者より―のメッセージが生まれることになるのです。
米軍の接収解除は意外に早期で、その年の12月31日でした。勝磨のメッセージの影響があったものと考えるのが妥当と思われます。
前述の井上成美は地元で教育塾を開き、英語・音楽と共に礼儀作法を地元の子女に教え、昭和28(1953)年にこの塾を閉じています。
一方、勝磨は同年、東京都立大学教授として転出しています。戦後から昭和28年までの間、両者は共に横須賀市長井の住民であったわけです。この2人は長井で交流又は接点があったのでしょうか……。
今回は戦乱の波にもまれながら、地域の為に尽くした「長井の2人」を紹介しました。次回は団ジーンに戻ります。
(つづく)
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昨年12月15日、井上成美の命日にあたり、位牌がある長井の勧明寺を訪問。自身も井上塾生の1人だったという同寺の藤尾良孝住職よりお話しを伺いました。
その後、終焉の地である井上邸跡地を見学しましたが、東日本大震災の影響で閉鎖、既に取り壊されており、現在は別の建物に変わっていました。
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