三浦版 掲載号:2018年2月9日号 エリアトップへ

連載 第9回「義盛と巴御前」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介

掲載号:2018年2月9日号

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巴御前と侍女の墓と称する石塔(横須賀市岩戸)
巴御前と侍女の墓と称する石塔(横須賀市岩戸)

 『三浦古尋録』の中に次のような一文があります。「源平合戦ノ後ハ関東ノ諸大名下々ノ郎等ニ至ルマデ日夜(にちや)酒宴遊興ノミフケリケル(中略)」とあって、「田代冠者信綱奉行トシ相州大磯ニ廓地ヲ下サレ数多(あまた)普請出来関東無双ノ遊里トハ也(なり)ケル時ニ建久二年(1191年)頃関八州ノ大小名此廓ヱ通ヒ日々ニ遊里繁昌ス三浦和田ノ一門三日三夜此里(このさと)ニ酒宴シ或(あるい)ハ獅子舞或(あるい)ハ狐ツリノ一興ヲ尽ス(後略)とあって、次に曽我ノ五郎が登場して、三浦家の朝野三郎義久と揉(もみ)合いになったと言うのですが、それを三浦家の朝比奈三郎義秀との争いとの間違えとしています。

 ここに登場する「朝比奈ノ三郎義秀」のことを『三浦古尋録』では次のように述べています。

 「元暦元年(1184年)二月近江(おうみ)国(現滋賀県)粟津(あわづ)カ原戦ヒノ時木曽義仲ヲ三浦家ノ内(うち)石田ノ二郎ト云者射落ス、巴御前ハ和田ノ平太胤長(へいたたねなが)(義盛の甥)召捕(めしとり)鎌倉エ連来ル処(ところ)頼朝公ノ命ニヨッテ巴ヲ義盛ニ下サレ和田ノ館ニヲイテ朝比奈ノ三郎義秀ヲ産(うむ)、建久二年和田ノ酒盛(註・大磯での出来事)ニハ朝比奈僅(わずか)七歳ナリ朝比奈ハ木曽義仲ノ朝日将軍ノ朝ヲカタトリ朝比奈(あさひな)ト云、舞鶴ノ紋処ヲ附(つけ)タル陣扇子ヲ巴御前ニ下サル故(ゆえ)ニ紋処ニ附(つけ)ルトナリ」とあります。

 その後、建保元年(1213年)の「和田合戦」のあと、巴御前は江劦(こうしゅう)(近江国)へ行き、尼となって木曽義仲の菩提を弔(とむら)ったと言われています。また、巴御前に召仕える女性「おきよ」が「伊勢国」に居て、文を送っています。最後の一文では「君ゆへに寿の命も おしからし 気うよりのちは あわつかはらに」【君(義仲)ゆえに人生の命も惜しくはありません。気持ちは粟津の河原に、後(の)ちのときまでもありますよ】ということなのでしょうか。

 『横須賀雑考』(昭和四十三年八月、横須賀文化協会発行)の中に「ともえ御前の遺跡」と題した文があり、次のようにあります。

 「(前略)晩年になり、ともえは侍女の山吹とともに尼になって諸国を巡り歩いて後、三浦氏にゆかりの大矢部の里にたどりつき深谷の円通寺のほとりに草庵を結んで亡父をはじめ木曽や和田一門の冥福を祈って朝な夕な勤行をはげんでいた。時々は近郷近在に托鉢して浄財を集め、それで和田氏九十三騎の墓を建てたということである。(中略)ともえの墓と伝える五輪塔が二ヵ所にある。一つは市内岩戸の満願寺の東の方の小高い所にあり、傍らに侍女の墓と伝えるものと二基がある。他は森崎団地の森崎から登り口の左側にあり、里人たちは、これを『大仏』と呼んで、巴御前の塚だと伝えている。」とあります。

 和田義盛に関する話は横須賀にも残されています。

(つづく)
 

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