連載 第10回「義盛の篤実さ」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
和田義盛は武勇の人として「弓術八巧手」と呼ばれる達人でしたが、政治家としては融通性に乏しく頑固な面もあったようです。性格的には誠実無比の人柄が御家人の間に人望を集めていました。また、鎌倉幕府初代の「侍所の別当」(武士を統轄する役目)として源頼朝公を支えた武人で、「左衛門尉(さえもんのじょう)」とも称していました。また、篤実で信仰心のある方でもあったのです。
現在は在りませんが、その昔、「高円坊村」に「大井山五劫(ごこう)寺」という寺がありました。『三浦古尋録』に、「此(この)寺ニ和田義盛ノ守本尊ノ地蔵菩薩アリ」と記されています。義盛は、この寺に参るとき精進(身を清め心を慎むこと)をした川があります。「精進川」と呼ばれていましたが、現在では「庄司(しょうじ)川」と改称されています。
さらに、文治五(1189)年に奈良の仏師運慶に依頼して、阿弥陀三尊および、不動明王像、毘沙門天像などを造像しています。いずれも国指定の重要文化財として横須賀市芦名の「浄楽寺」に安置されています。この寺は義盛が建立した「七阿弥陀堂」の一つです。
三崎にある「光念寺」も義盛の開基とされています。「義盛」の木像が在ると言われる「鹿穴山来福寺」も義盛の発願で建立された寺であると言われています。
横須賀市鴨居に「西徳寺」という寺があり、境内に「和田地蔵」が祀られています。『横須賀雑考』(昭和四十三年横須賀文化協会発行)に「昔、和田左ヱ門尉義盛が防備視察に鴨居に来たことがあった。その時のこと路ばたの石の地蔵さまを見て凡作ではないことに気付いた。」とあります。
お地蔵さまを祀るお堂の中に「和田地蔵尊御詠歌」が掲げられています。全文ひら仮名で記されていますが、ここでは解りやすく漢字を交えて記してみます。「(前略)ある日戦(いくさ)に出る時に 義盛殿の申すには 吾(わ)れ戦(たたか)いに勝つならば 川上(かわかみ)さして流るべし そにあらざれば川下(かわしも)に 流れ給へと念じつつ 地蔵さまをば川なかに 投げ給へればあら不思議 浅き流れに行き給ひ 川上指して流れ行く 義盛深く感じいり 堂をば建てて祀りけり 幾年月(としつき)を経(へ)たりとも 変はることなきお姿の 紅(あか)い帽子に紅い袈裟(けさ) 子供の苦難救(くなんすく)はんと 朝な夕なの願い願(がん) 昔も今も変(かは)りなく その名もゆかし和田地蔵(後略)」と記されています。
義盛は戦勝祈願のために流した地蔵尊が半身を浮かせて川上へ流れて行く姿に感激をして、早速このお地蔵さまを祀ったとされるご詠歌なのです。
もう一つ、この寺の裏山に「義盛の剃刀(かみそり)塚」もあるということなので登っていったのですが、それらしき塚状の小高くなった個処が一つありました。
(つづく)
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