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三浦 コラム

公開日:2018.03.23

連載 第12回「池代の地」
三浦の咄(はなし)いろいろ
みうら観光ボランティアガイド 田中健介

  • 光信寺跡碑うらに残された墓群

 『新編相模風土記稿』の「上宮田村」の項に「光信寺」が記されています。



 「池代山」と号す。とあって、「所在の小名なり」との註があって、開山は「光信」で、「文永三(1266)年八月に亡くなられた」とあり、親鸞上人の付き人であったとも記されています。この寺は、古くは鎌倉にありましたが、天正年間(1573〜91年)に兵火にあって、この地に移ってきたというのです。そのことが、昭和十一(1936)年に建てられた「光信寺跡」の石碑の裏側に「柳々(そもそも)『光信寺跡』ト称スル此ノ地一帯ハ宗祖親鸞聖人ノ直弟カツ当山ノ開基タル光信房ガソノ晩年ニ及ビ伝法弘動ノ道場トシテ一草庵ヲ建立セシ遺跡ナルコト歴然タリ。」と記されています。



 「三浦海岸駅」の西方にある住宅街の(かつては「青木田」と呼ばれた谷戸の奥にあたる所)で、南に入りこんだ谷戸地で「池代(いけしろ)」の地名があるところです。土地の人の話では、この辺りは水が豊富で田圃がたくさんあり、溜池もあったと言うことで、「池のある区域」の意から「池代」の地名がつけられたのでしょうか。その「池代」から明(みん)の国(中国の古名)で1411年につくられた銅銭が掘り出されたと言うのです。



 『北条五代記』に、「応永十(1403)年八月三日異国船入津(にゅうしん)(入港のこと)せり、船中に永楽銭数万(すうまん)貫(かん)積(つみ)来る時に鎌倉の将軍義満公の下知(げち)(命令)によって船よりあげさせ、此の時永楽銭はじめて弘(ひろま)る」(後略)とあります。



 また、『三浦古尋録』に「此(この)池代ヨリ中古(他本・先年)文字替リノ銭多く掘出シタルノヨシ申ス。皆(みな)永楽銭也(なり)ト云(いう)、北条五代記ニ漢土(から)ノ作法ニテ年号改元ノ時、銭ノ文字改(あらたま)ル。永楽銭ハ明朝(みんちょう)三十六年、日本ノ応永十癸未(みずのとひつじ)(1403年)ニ当(あた)ル此(この)年(とし)唐船日本ヱ銭ヲ積(つみ)テ来ル。然(しか)ル所在々(いろいろな所)ニ於(おい)テ銭ノ善悪(よしあし)ヲ争(あらそ)ウ事有(あり)テ天文十九(1550)年ニ北条氏康公関東ニテハ永楽銭ヲ通用スベクノ由(よし)高札ヲ建玉(たてたま)フト云事(いうこと)見ヱタリ、此処(ここ)ノ銭モ其(その)時分(じぶん)埋メヲキシト思ヘリ」と書かれています。さらに、その頃は武家の知行(給料)も銭で、永楽千貫文にて一万石であったと言われています。



 三崎港に入港した異国船が運んできた銅銭が池代の地に埋められていたとは、何んとも不思議なことです。



 「池代」の名は「宮田貞明館址碑」の中に、貞明の家人として「宮田郷ヲ家人岩上六郎、池代入道等ト領ス。」とあります。貞明は三浦大介義明より八代の子孫で、建武(1334年〜37)の頃の人であろうと言われています。(つづく)

 

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