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三浦 コラム

公開日:2018.11.16

連載 第28回「城ヶ島のこと その4」
三浦の咄(はなし)いろいろ
みうら観光ボランティアガイド 田中健介

  • 県最南端に立つ安房崎灯台

 江戸時代に入ると日本の沿岸に外国船が近づくようになりました。



 『城ヶ嶋村沿革畧誌』によりますと、「烽火(のろし) 安房崎ニ在リ、慶安元(1648)年ヨリ享保五(1720)年ニ至ル七十二年間継続ス、異船渡航等ノ時、之(これ)ヲ点火シ、警報スト云フ、又一説ニ航海者ニ便スル為メ風雨ノ夜、点火スト云フ」とあって、その装置について、高さ一丈五尺(約4・5メートル)、巾一丈(約3メートル)、下積松枝、上積茅(かや)、心木(しんぼく)に松の木を用いていたようで、周囲を竹で被(おお)っていたようです。材料は官林の松や三崎番所の支配村から差し出されたものと記されています。外周の竹は、「三崎城山ノ竹ヲ用(もち)ユ」とも書かれています。さらに、風雨などで損害を受けた時は「上部ノ積替ヲ為セリ」としています。



 「横須賀海上保安部」の見解では、この烽火(のろし)台が「城ヶ島灯台の始まり」としています。その後、烽火(のろし)台は廃止され、延宝六(1678)年に「燈明堂」が設けられました。「西ノ内(うち)、紙張ニシテ燈心ヲ用ユ、西山最福寺山ニ設ク」と『城ヶ嶋村沿革畧誌』に記されています。場所としては現在の「城ヶ島灯台」の在る処でありましょう。ただ、「航海者ニ便スル為ナリ」としていますが、「火光(かこう)薄(うす)ク不便ナルヲ以テ、享保五(1720)年廃シテ篝(かがり)火(び)ニ替(かわ)ル」としています。



 この時、「遠見番所」が、外国船の来航を看視するよう設けられましたが、しばらくして廃止されました。



 「城ヶ島篝屋(かがりや)」が、享保六(1721)年七月に創建され九月に竣工し十八日から焚(たき)始められたと言われています。柱と屋根のみの建物で、松の木を薪として、冬期は百二十束、夏期でも八十束を燃やしたと言われています。毎夜三人が交代で焚火(たきび)守(もり)をしていたとのことですが、燃料の薪の入手に苦しんでいたのです。



 そのことについて、『城ヶ嶋村沿革畧誌』に次のようにあります。



 「享保五(1720)年四月十九日向井将監鳳凰丸ニ搭(とう)シテ篝屋新設ノ地ヲ検ス、此(この)行(こう)伊豆国下田ニ至テ止(とど)ム。時ニ、堀隠岐守浦賀奉行タリ、幕命ヲ奉ジテ同行ス。隠岐守ハ陸行シ、下田ニ至テ向井氏ト会ス。ノチ、相議シテ篝屋ヲ本村(城ヶ島村)ニ定ム。蓋(けだ)シ(たぶん)篝屋ニ係(かかわ)ル経費ハ、船舶ヨリ之(これ)ヲ徴ス。」と記されています。(句読点と読み方は筆子によるものです)なお、向井氏は当時「船手頭」の職にあり、海上を守備する任にあったのです。



 浦賀奉行所は浦賀に入港する船から、その船の大きさに応じて入港税を徴収して、篝屋の維持経費に充(あ)てていたとのことです。明治に入って洋式灯台が完成するまで、「篝屋附(つき)手代(てだい)詰(つめ)役所」が設けられて、一夜も灯を絶やすことなく立派に灯台の役目をはたしていたのです。



(つづく)

 

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