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東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その21 実験所を支えた地元の2人【6】

掲載号:2019年4月5日号

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 勝磨は先遣隊の大佐から実験所が爆破対象であることを聞き、急ぎ彼の有名な「The last one to go」(最後に立ち去るものより)のメッセージを実験所二階の扉に貼り付け立ち去ります。帰途トラックに乗る爆破部隊と遭遇。実験所への道を教えるという皮肉な出来事もありました。

 その年の十二月三十一付で返還されるまで米軍接収中の間、実験所内部や水族館は荒らされ、廃墟同然に。米軍兵士はサンゴやガラス海綿など美しい標本を戦利品として持ち出し、近所の宿の女中などに手土産としてやってしまう始末(後に重さんが回収します)。ピストルの標的とされた標本もあり、その弾跡は10年以上も残ったそうです。机の引き出しなどは、日本軍が復員する際、箱代わりに物を詰めて持ち去っています。

 昭和21(1946)年後半になって研究が開始できるようになり、勝磨を主体とする研究が、同年に10件ほど報告されています。その後水族館の再開(22年)、団ジーンによる位相違顕微鏡の導入(23年)、新制東京大学の発足(24年)などを経て、実験と研究の体制が整備されていったのです。

 勝磨は昭和28(1953)年、新制の都立大学教授に転じますが(その後も油壺実験所におけるウニの研究は続けています)、実験所には24(1949)年8月に東大動物学科で学んだ冨山一郎が、成蹊大学教授から助教授として赴任しました。昭和27(1952)年3月に第6代所長就任、昭和35(1960)年教授に昇格、昭和42(1967)年の定年まで在職しました。

 戦争の傷跡は昭和30(1955)年代初頭までにほぼ癒え、実験所はこの冨山所長とスタッフの下で「実験所の黄金時代」に入ります。同年時点で採集船は三隻。発生学の興隆に伴って、ウニの発注はウナギのぼりに増加。重さんたち採集担当はてんてこ舞いの状況に。アカウニなどは死にやすく、その数を揃える採集人の苦労は一方ならぬものでした。また、バフンウニの採集は冬の真夜中に岩場をつたい探し求めるのが通常。しかし寒風と冷水にも、重さんは愚痴一つこぼすことはなかったそうです。すでに還暦を迎えていたのに…。昭和36(1961)年、重さんは嘱託の身分となりましたが、なおキビキビと働いていました。そして昭和39(1964)年、古希を前に採集人としては異例の黄綬褒章を受けるのですが、この頃から重さんの顔が曇るようになります。   (つづく)
 

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