連載 第42回「海南神社のこと【7】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「神楽殿」の絵画の三番目は、参道側に見られる「日本武尊」の絵です。
十二代の天皇「景行(けいこう)天皇」の御子息「倭建命(やまとたけるのみこと)」(この表記は『古事記』のもので、『日本書紀』では「日本武尊」としています。)の「東国征討」が題材となっています。天皇の「東の方十二道の荒ぶる神、またまつろはぬ人等(ども)を言向(ことむ)け和平(やは)せ」とのご命令によって、東(あづま)の国に幸(いでま)して、悉(ことごと)に山河の荒ぶる神、また伏(まつろ)はぬ人(ひと)等(ども)を言向(ことむ)け和平(やは)したまひき。(東国にお出かけになって、ことごとく山や川の荒れくるう神々、また服従しない人々を平定しお従(したが)えになった。
その後、「相武(さがむ)の国に到ります時に、その国の造(みやつこ)(古代の姓(かばね)の一つ。その地を統率する氏族の姓。)詐(いつは)りて申(もう)さく、「この野の中に大きな沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神(暴威を振う神)なり」と、偽(いつわ)りを申し上げると、その神をごらんになるために、その野にお入りになった。すると、その国の造は火をその野原につけた。それで、倭建命は、だまされたとお気づきになり、叔母の倭比売(やまとひめの)命(みこと)の下(くだ)さった袋の口を解いて開けてごらんになると、火打(ひうち)石(いし)が中に入っていた。そこで、先ず御刀で草を刈り払い、その火打石で火を打ち出して向い火をつけて、焼き退けて還(かえ)っておいでになるとき、その国の造どもを皆切り滅(ほろぼ)し、火をつけてお焼きなさいました。そこで、今でも焼津(やいず)と言っております。
現在の静岡県焼津のことですが、『古事記』では「相(さが)武(む)」としています。絵の中にも登場している弟橘比売(おとたちばなひめの)命(みこと)のお歌、「さねさし相模(さがむ)の小野(をの)に燃(も)ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも」もうなずけます。角川文庫の『古事記』の註釈では、「さねさし」は枕詞で、嶺が立っている義であろう。としています。嶺は静岡県とすれば富士山、神奈川県とすれば大山である。と述べています。
さらに、もう一枚の絵画は「海幸山幸」の絵です。天照大神の孫になる「邇邇芸命(ににぎのみこと)」が猿田毘(さるたひ) 古神(このかみ)の道案内で、天降(あまくだ)りされて、大山津見神(つみのかみ)(山を支配する神)の娘である木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)との間に生まれた神(産殿(うぶや)に火を放ち、火の中で無事に出産したと伝えられている。)が、「火照命(ひてりのみこと)」(海佐知毘古(うみさちひこ))であり、「火遠理命(ほをりのみこと)」(山佐知毘古(やまさちひこ))です。
弟の山幸彦(さちひこ)が、兄の海幸彦(さちひこ)の持つ、「釣り針」を借りて、魚釣りをするも、一つの魚すら得られず、最後に「釣り針」を鯛に取られ行方不明になってしまいます。元の釣り針を返却せよとの、兄の申し出に、ワタツミ(海神)の御殿に出向き、海神の女の豊玉毘売(とよたまひめ)と結婚して、三年間も、海神の国にご滞在になったと言うことで、その後、「針」は無事に返却されたと言うことです。 (つづく)
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