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三浦版 公開:2019年9月20日 エリアトップへ

連載 第47回「歌舞島のこと【2】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介

公開:2019年9月20日

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埋立地の向こうの落日
埋立地の向こうの落日

 『北条九代記』(二巻、成立年代は不詳ですが、1183年〜1332年〈寿永二年〜正慶元年〉)は、鎌倉幕府の補任や年中行事を中心に編年体で記されているもの。と『日本史辞典』に書かれています。その巻六に「三浦義村経営弥陀来迎粧」と標題されて記されています。前号と重(かさ)なる部分がありましょうが、その情景を詠んでみましよう。

 「三崎ノ海上二十余艘(よそう)ノ舟ヲ浮ベ、舟の幕ニハ紫雲ノタナビケル色ヲ染(そめ)テ、舟ゴトニ走ラカシ、金銀ノ金物五色ノ綵(あや)(色どりの意)サナガラ舟ハ七宝荘厳ノアリサマ。見ナガラ極楽世界モココニ移スカト。(中略)沈檀名香ノ匂ヒ浜風ニ乗テ、四方ニ聞エ、異香薫(くん)ズトハ、コレナルベシ。十余艘来迎ノ舟ハ、沖中(おきなか)ヨリ漕(こぎ)ヨスル管弦(かんげん)ノヒビキ漸々(だんだん)近クナリオリフシ、空晴風静カニ波モナキ海ノ面ニ漕居タリ、(中略)内々(ないない)仕立テ定メタリシカバ、ソノ役々ノ輩(やから)、菩薩ノ姿ニ出立(いでた)ツ、観世音ボサツ紫金台ヲサシ寄セテ舟ノ面(おもて)ニ現(あら)ハレタリ。舟ハ二階ニ拵(こしら)へ、幕ハ下ニ張(はり)タレバ紫雲ノ上ニ立(たつ)ガゴトツ。ソノ次ニ勢至(せいし)ボサシ合掌シテ現(あらわ)レタリ、また、中央ニ阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)ノ立チ給フ紫(し)麿(ま)黄金ノヨソヲヒハ瑩(みがき)キ出セル金ノ山アタリヲハラッテ見(みき)給フ。(中略)只今(ただいま)、西方ノ極楽へ迎ヘトラルル心地(ここち)シテ見物ノ諸人ハ随喜(ずいき)ノ涙ヲ流シケリ(後略)」と、記され、三崎の海上は聖衆来迎の法悦をありありと表出したのです。

 昔は「かぶと島」とも呼ばれていた「歌舞島」の直前まで海があって、傍らを通る「関東ふれあいの道」も海上であったのです。

 昭和25年版『三崎町勢要覧』を見ると、当時の「三崎八景」として、「小網代湾」、「油壷湾」、「宝蔵山の展望」、「漁港風景」、「八景原」、「灯台と荒磯」、「安房崎の大観」とある中に、「歌舞島」もあって、「諸磯岬につづく無数の乱礁に砕く白波、相模湾を距(へだ)てて望む霊峰富士、往時頼朝遊覧の砌(みぎり)(とき)歌舞を奏せしに因(ちな)める名称とも云ばれ、近く展望台地の公園緑化が計画されてゐる。」と書かれています。

 また、この地へ、北原白秋も明治四十三(1910)年五月五日に来崎され、岬陽館に宿泊し、この歌舞島を訪れ、次のように歌を詠じています。

 「いつしかに春の名残(なごり)となりにけり昆布干場のたんぽぽの花」

 「鉋研(かんなと)ぐ浜の大工の指のさきしみみ光れり漣(さざなみ)に向き」

 「野薊(のあざみ)に触れば指やや痛し潮見てあればすこし眠たし」

 このように、海辺も近くにあったようですが、現在では埋立地が多く、海は遠くになったようです。

(つづく)

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