東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治、吉本尚その29 番外編【6】【完】
実験所では無給という異例の立場ながらも着々と研究業績を積み重ねた團夫妻ですが、戦後はそれをバネに新天地で教育と研究に邁進。勝磨は都立大学理学部教授、ジーンは名門お茶の水女子大学理学部講師に登用され、その際公務員採用要件として米国籍をキッパリと捨ててしまうのですが、結果的にその後20年間も講師という下積みの地位に甘んじることになったのです。それは外国人を教授などの要職に付けた場合、入試など諸々の責務をどう負わせたらよいか―との大学側の迷いからともみられます。しかし地位が何であれ彼女はゼミ学生などには常に人気の的。うっかり実験ミスでも犯そうものなら容赦なく「このバカチン!」の声が飛ぶ一方、私物の貴重な位相差顕微鏡を惜しげなく使わせるといった気さくで頼もしい先生でした。教授に昇進したのは昭和48年、退官までわずか3年のことでした。
ところでその頃、同大学は房総館山に付属臨海実験所を開設し、ジーンをその所長に任命します。それは彼女の多大な功績に報いる意味合いもあってのことと思われますが、ジーンは館山の海に程近い丘の上に居を構え、退職後も地元の純朴な人々と親しく交わりながら研究と晴耕雨読の日々を送ることになったのです。勝磨は学界の要職にあり、三崎の実験所へのアクセスの点からも東京と館山の二重生活を余儀なくされていましたが、その窓辺にはジーンが論文添削などに没頭する姿が深夜まで灯に映し出されていたとか。
彼女には戦時の過酷な生活によりもたらされた喘息体質があったのですが、たまたまアメリカからの知人を迎え二人きりだった時に突然、喘息の大きな発作が襲い、ジーンの波瀾万丈だった68年の人生の幕をあっけなく閉じてしまったのです。
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油壷の海辺に瀟洒な佇まいを見せる煉瓦造りの建物。これこそが常に團夫妻の心の古里でした。しかし、それも老朽化が進み、今は無人の館。そして程なく姿を消すとのことです。そこでここを潮時に、改めてお二人の偉大な足跡と人柄を忍びつつ、この連載を閉じることに致します。(完)
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