連載 第58回「油壺のこと【2】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
三浦荒次郎の墓にお参りした川上眉山は、路傍の木の枝を花の代(かわ)りに供え、ひと傾(かたむけ)の酒をかけて墓前を去りました。波の音を近くに聞きながら歩きはじめます。
「径(みち)は断崖に窮(きは)まって、ここにも村松と浪(なみ)の音の相争(あいあらそ)へる方に、一基の墓あり。道寸義同(どうすんよしあつ)の刻字を見る。左手(ゆんで)に稍(やや)深き松林の中、一面平布(へいふ)(平地)の芝原あり。荒井(新井)の城址として残るは此(この)あたりのみ。松の露夕(ゆうべ)に落ちて、汐(しお)風枯草の上に吹渡らむ(渡るであろう)時、怨魂(うらみの心霊)将(はた)(それともまた)いづこ(どこ)にさまよはむ(さまよっていらしやる)と、すらむ(さえ思える)。十二の要害(守るのによい場所)、九つの切所(せっしょ)(道のけわしい所)、勇士雲の如(ごと)く(ように)、千駄(せんだ)(数多くの)の粟(ぞく)(穀物(こくもつ))を積(つ)んで、籠城幾歳(ろうじょういくとし)に及びけるが、滔々(とうとう)(広大なさま)たる小田原勢、将(しょう)は好漢(こうかん)(りっぱな男)北條新九郎入道早雲なり。勢の馳する処(軍勢のかけるところ)、命の帰する処(命の終わるところ)高(たか)が(十分に見積(みつも)っても)延鉄細工(のべがねざいく)の剣(けん)いつの時にか折れざらむ(折れてしまうだろう)。戦国敗餘(戦国期に戦いに負けた後)の武人(ぶじん)(武士)弓矢の意地(いじ)(意志)も亦憐(またあわれ)むべし(当然、あわれに思うであろう)。鳥兎匆々(うとそうそう)(月日のたつのがはやいことの意)、深仇(しんきゅう)(なみなみでないかたき)なりし其人(そのひと)も逝(ゆ)き、其武(そのぶ)も尽くる時あって、其(その)国も亦滅(またほろ)びたり。あゝ当時の智や勇や略(攻略のことか)術や血や剣や功や涙や、すべて朝雲暮煙(年月の過ぎゆくことか?)に先立ちて、只今(ただいま)ただ帝国大学用地と記したる木標のもとに、一文人(川上眉山自身のことか?)の立てるあるのみ、北風凜(りん)(寒さがきびしいさま)として武山(たけやま)をおろし来る。」
眉山は道寸の墓前に参って、往事(おうじ)を偲(しの)んで種々のことを想(おも)い起こしたのでしょうか。この地にあるのは墓と言うより、江戸時代の天明二(1782)年に建てられた供養塔なのです。正面に家紋と共に「従四位下陸奥(むつ)守道寸義同公墓」と刻字され、左側面に「永正十五年寅年秋七月十一日討死、諡号(しごう)永昌寺殿道寸義同公大禅定門神儀」とあって、辞世の歌「うつものもうたるるものもかはらけよくだけてのちはもとのつちくれ」と刻まれています。また、右側面には、「天明二壬寅秋七月永昌九世正機、募化縁造立、施主正木志摩守、三浦長門守、杉浦出雲守」等、三浦一族の子孫の名が刻され、さらに、当時、この地を管理していた松平縫殿助、松平縫殿頭家臣松本文左衛門、奈良長蔵」も刻字されています。
眉山が「荒井の城址」としている処は、「帝国大学用地」と記されていますが、現在は「東京大学臨海実験所」になっている所です。 (つづく)
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