連載 第65回「三浦古尋録その【4】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
『三浦古尋録』(文化九年/1812)の中に「三浦四名井」(註では七ともあり)として、次のように記しています。「吉井・長井・今井・筑井(津久井)・大井戸」と五箇所をあげています。あらためて五箇所の「井」について調べてみようと思います。
先づは、「吉井」について『新編相模国風土記稿』(天保十三年/1842完成)の中に「西浦賀の分郷」として村北の字名(あざめい)で、かつては「吉井村」と記していたようです。「今、村民市郎左衛門が宅前(たくまえ)にある井、是(これ)なり」と記しています。
また、この地近くに清水の湧き出る話も載っています。
「吉井山ノ麓ニ高坂ト云処(いうところ)アリ、此処(ここ)の田ノ間ニ清水湧出(ゆうしゅつ)ス、弁天(べんてん)水ト云(い)フ」と記され、「ヒデリニテモ其(そ)ノ水絶(たえ)ル事ナシ、故(ゆえ)ニ里俗是(りぞくこれ)ヲ天女水ト云(いう)」とも書かれています。さらに「三浦古尋録解説」(昭和四十二年/1967発行)の中に著者加藤山寿が西浦賀高坂(こうさか)の一部で吉井へ越す一地域に移り住み、文筆生活に入ったと思われる。と述べ、この地を「花水」と言い、今に山寿の書いた「天女水」の碑が残っている。と記しています。
次に「津久井」については「筑井」とも表記されています。『古尋録』が書かれた当時の「津久井村」は戸数百五十戸の村でした。
『新編相模風土記稿』の中に、村の南に「字(あざ)井戸田」ありとあって、土地の人は「此の水を飲むを忌む」と記され、「由来は詳ならず」とも書かれています。
津久井浜高校が創設された頃、駅から学校へ向かう道の右側は田圃が続いていて、その中に、水が湧き出る処なのか、周囲に石が置かれている場所があったように記憶しています。
次の「長井」について調べてみると、「井戸」らしいものは見られません。「長井」については『三浦古尋録』には、「此処(ここ)漁村ナリ向(むかい)ノ峯(きし)(岸の意)ハ佐嶋村ニテ、中ニ林村ヲ夾(はさ)ム入江ナリ」と記されています。
『長井のあゆみ』(長井小学校創立90周年記念誌)の「地名の由来」の項に「長は短の反対で長いの意味である。井は普通井戸の意味で水の集まるのをいうのであるが、また、部落あるいは村の意味にとることもある。長井の部落は海岸線が長く続いている。地名は、その土地のようすからであろう。」とあります。また、「長柄(ながえ)」から変わったのではないかとして、「ひしゃくの柄(え)のように、台地が海に突き出している地形からきたものである」とも記されています。また、「井尻(いじり)」という、長井の中の地名について、「長井の中心が「屋形」・「番屋」であるとすれば、「井尻』は、そのあと、うしろにあたる。」とも記されています。
残る二つの井は、三浦市内の「井」です。 (つづく)
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