逗子にあった「味の素」編 ちょっと昔の逗子〈第4回〉 硝石の製造を開始
児童文学作家・野村昇司さんにご協力いただき、明治から昭和にかけての街の様子や市井の人々の生活を史実に基づいて蘇らせます。第一弾は「逗子にあった『味の素』編」。語り継ぎたい、逗子の創作民話です。
大日本製薬会社の技師長でもあった長井春齢のもとで、鈴木家はヨードの製造過程で残ったヨード灰に大量に含まれていた塩化カリなどから硝石を製造するようになっていた。
中国では漢の時代に海藻から硝石が取り出せることを発見し、12世紀後半にかけて花火の材料としてシルクロードを経てヨーロッパに伝えられていた。フランスでは火薬の原料として硝石は発見されていて、ナポレオン戦争で役立ったが、ヨードへの気づきには至っていなかった。
日清戦争の高まりによりヨード製造に合わせて二代目三郎助は硝石の製造を始めた。日清戦争により、その需要はさらに高まり、鈴木製薬は活気を帯びていく。
1901(明治34)年にはヨードと硝石を砲兵工廠へ納入するように。やがて陸海軍省ご用達となり、莫大な財産を築いていく。
04年、日露戦争が始まると、硝石の製造はさらに盛んになり、葉山の工場では間に合わず、三浦郡逗子町145番地(現在の逗子市逗子2丁目)に工場を新設する。
延命寺向かい、田越川沿いの海から500mほど離れた水田の中に位置していた。敷地は1450坪。従業員は約40人。事務員が3〜4人ほどの規模だったが、1907年から08年にかけて、逗子工場は息つく暇もない忙しさとなるのだった。
野村昇司
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