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有料名越トンネル【1】 ちょっと昔の逗子〈第11回〉 「名越の山に穴をあけたい」 野村昇司

掲載号:2019年3月8日号

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 児童文学作家・野村昇司さんにご協力いただき、かつての街や人々の生活を史実に基づき蘇らせます。今回から『有料名越トンネル』がスタート。街のために一大プロジェクトに取り組んだ、明治の男たちの物語です。

 松岡富道は安政五年(1858)、名主松岡家の長男として久野谷村(明治七年柏原村と合併して久木村となる)で生まれ、幼名を甲太郎といいました。幼いころより難儀を越えるといわれて「難越」から「名越」という名称になったこの「名越の切通し」を越えて鎌倉の学習塾に通っていました。

 この切通しのある山の名越坂はその昔、鎌倉幕府が鎌倉を防御するための自然の要塞とし、外敵に攻め込まれないように半島に通ずるか細い道を切り開いていました。道には岩石などが突き出ていて人馬の行く手を阻むように三浦半島と鎌倉を結ぶ主要路となっていました。

 「この名越坂の山に穴を開ければ鎌倉へ通えるものを」。狭く急坂の多い「名越の切通し」を越えるたびに甲太郎はつぶやいていました。

 明治維新(1867)の翌年、父親が急死したことにより11歳で家督を継がなければならなくなった甲太郎は、父の富尊の富を引継ぎ、富道と名乗りました。幼くして家長となった富道は家長として松岡家のしきたりを身に付けなければなりませんでした。

 まして、鎌倉の学習塾へ通いながら、家長として鎌倉との付き合いもあり、これまで以上に「名越の切通し」を越えることが多くなり、そのたびに名越の山に穴を開ければもっと楽に鎌倉へ通えるものと思い続けていました。
 

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