有料名越トンネル【9】 ちょっと昔の逗子 命ささげた二人の明治の男たち 野村昇司
児童文学作家として活躍した故・野村昇司さんが遺した物語から、かつての街や人々の生活を蘇らせます。今シリーズは、一大プロジェクトに取り組んだ明治の男たちの物語です。
中でもその年明治二十二年、突然のように始まった横須賀線の敷設工事については大きな関心をもって臨みました。当初計画には田越村を通過する横須賀線には田越村に停車する駅の計画はありませんでした。このことを知った安行は列車の停車する駅の設置を村民の中心となって要望し、成功をおさめました。されには駅名を選ぶにあたっても「この田越村の将来を考えて『逗子駅』と決めたい」と提案し、横須賀線に逗子駅という停車場が誕生しました。
一年にして村長辞任その後の死
ところが一年にして安行は田越村の村長を辞任してしまいました。その後安行の消息を知る者が少なかったにですが明治二十七年、胸を患っていたという安行の死が村々の悲しみとなって広がっていきました。
十五年の歳月が経った明治三十五年名越トンネル、小坪トンネルの通行料は無料になりました。
この様子を見ることもなく、トンネル開設の尽力に打ちのめされた富道は無料となる十四年も前に三十一歳の若さで亡くなっていました。富道を支えつくしてきた安行も無料となる八年前に三十八歳でこの世を去ってしま居ました。
あのトンネル掘削に命を懸けた富道と安行は、当時、富道は二十四歳、安行は二十七歳だったということに明治の若者たちの心意気を感じずにはいられません。 (完)
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