開校から100年以上が経過した市内の進学校、県立湘南高校。記者は同校の歴史を調べる中で、「藤沢を戦火から守った」とされるアメリカ人教師「ピーク先生」の存在を知り、関係者に取材を試みた。そこで明らかになったのは、戦後80年の記憶を継承することの「難しさ」だった――。
キラス・H・ピーク氏は1922年から翌年にかけて8カ月間、同校に英会話教師として在籍した。通説では、そこで湘南の魅力に触れたピーク氏が、太平洋戦争末期に軍需工場とされ、爆撃対象となった日本精工を「消費物資の製造関係の工場である」とかばう報告を国防総省に提出し、藤沢市街地は空襲を免れたとされていた。
「だが、辻堂の関東特殊製鋼では、空襲被害があった」。同校OB会「湘友会」会員で、校内にある「歴史館」の運営に携わる鈴木和臣さんはそう語る。同会は新入生向けに配布する冊子『ようこそ湘南へ』も作成している。その冊子にも「湘南を戦火から守ろうとしたピーク先生」という項目があるが、「藤沢を戦火から守った」とは範囲やニュアンスが異なる。「ピーク先生の話は美談だが、疑問点が残る」と鈴木さんは話す。
ピーク氏が米当局に意見を提出したのは、戦時中に対日戦略の経済情報分析を担っていたからだという。戦後は、米司令部の関係者として再び来日。東京で官僚となっていた教え子と再会し、上記のエピソードが明らかになったとされるが、鈴木さんは「旧知の仲とはいえ終戦直後に、それまで敵だった国民に対し、戦略的なことを気軽に話すだろうか」と感じた。
「生徒に伝えるためにはエビデンスが必要」と鈴木さん。約10年前にピーク氏の逸話に関する史料や文献を探したが、「実証できるものはなく、本人から話を聞いた人も誰かは分からない」。開校50周年の記念誌にあるピーク氏が寄稿した文章に「町の真ん中にある工場を過ぎようとしたとき、『ああ、これがかつて国防総省爆撃目標課に報告したあの工場だな』という感慨にふけりました」とあることが唯一の手掛かりだが、その報告の詳しい内容は不明だ。
また鈴木さんは「藤沢には他にも空襲被害があった。その事実を誤ってはいけない」とした上で、「戦争経験者が少なくなっている今こそ、歴史を正確に把握し、伝えていかなくてはならない」とも。ピーク氏は寄稿文で藤沢への率直な愛を語っており、「湘南が大好きだったことはうかがえる」。依然謎や疑問点が残るが、「歴史館で継承していきたい」と鈴木さんは話してくれた。
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