鎌倉のとっておき 〈第90回〉 鎌倉の中の平泉文化〜永福寺跡〜
松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」で知られる奥州平泉。平泉は岩手県の南に位置し、平安時代末期に東北地方を治めた奥州藤原氏が拠点を構えた地である。
当時の奥州は金の産出や良馬に恵まれ、平泉は大いに盛えた。今に伝わる国宝の中尊寺金色堂や毛越寺庭園跡などからその繁栄を偲ぶことができる。
奥州藤原氏は文治5年(1189年)源頼朝の征討を受けて滅亡した。頼朝は戦没者供養の為、兵火で失われた平泉の大長寿院を模した大寺を鎌倉に創建した。これが現在、二階堂に跡地が整備保存されている永福寺である。
永福寺建立の経緯は「吾妻鏡」に詳しく書かれている。注目すべき点は、奥州藤原氏が建立した円隆寺の壁画を描いた絵師を鎌倉へ呼び寄せ、堂内の壁画を「至于畫圖、一事已上如彼」つまりそっくりに描かせた事である。外観だけでなく、堂内までも平泉を模したのである。永福寺はまさに平泉文化の継承であった。
また永福寺は当時としては珍しい二階建ての建築物であった。このため二階堂とも呼ばれ、やがて周辺の地名は二階堂となった。寺は室町時代に火災で失われた。
しかし現在、建物の配置や池の位置が再現され、かつてこの地に平泉の黄金文化を受け継いだ大寺が存在したことを確かに伝えている。
浮田定則
|
|
|
|
|
|