鎌倉のとっておき 〈第115回〉 鎌倉と御家人〜山内首藤氏〜
源頼朝が鎌倉に本格的な武家政権を樹立すると、鎌倉には多くの御家人達が集まり、鎌倉幕府に奉公するようになっていった。
今回取り上げる山内首藤氏は、源頼朝が鎌倉に入る以前から、今の北鎌倉と横浜市戸塚区・栄区一帯にあった広大な荘園、山内荘の管理に関わった北鎌倉ゆかりの御家人である。
山内首藤氏は源氏累代の家人として頼朝の父義朝に従い、保元の乱や平治の乱で活躍した。頼朝挙兵時の当主経俊は、はじめは頼朝に敵対したが、後に許されると数々の戦いで活躍し、各地の地頭職を賜わり、一族は広がっていった。
北条氏が鎌倉で勢力を伸ばすと、山内首藤氏は山内荘を離れ、鎌倉時代後期に備後国(今の広島県東部)地毘荘に腰を下ろした。そして荘内に鎌倉から鶴岡八幡宮を勧請したという。戦国時代には備後国の有力国人として一大勢力を築いた。広島県庄原市本郷町には、山内首藤氏の築いた甲山城跡が県指定史跡として保存されている。城跡の一角には菩提寺の円通寺(本堂は天文年間の建立で国の重要文化財)が残っており、今も往時を偲ばせている。
このように北鎌倉ゆかりの山内首藤氏は、遠く離れた備後国に足跡を残した。鎌倉時代に東国から西国へ移った御家人は数多く、これを西遷御家人という。彼らは東西の文化を融合し、後の地域社会形成に大きな影響を与えていった。浮田定則
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