平塚・大磯・二宮・中井 社会
公開日:2025.07.18
すくむ足、母に叱咤され
平塚市徳延在住 古谷さん
平塚市徳延在住の古谷公利さん(87)は、1945年4月15日の川崎大空襲と、同年7月16日深夜から17日未明の平塚空襲を経験した。戦争関連の記事がスクラップされたファイルには、記憶を留めようと描きおこした絵も。「百聞は一見に如かずだから」と戦禍を伝えている。
終戦当時7歳だった古谷さん。国鉄に勤務する父と、母、4歳下の弟の4人で川崎の平間駅近くにあった一軒家の官舎で暮らしていた。
川崎大空襲に遭った日、空襲警報が鳴ると父は職場へ。古谷さんは母と弟と、官舎の並ぶ敷地内にある、線路の枕木を組んで作った大きな防空壕を目指して走った。途中、10m先に大きな爆弾が落ちた時には、近くの民家に飛び込み、布団をかぶったおかげでガラスなどを含んだ爆風もしのげた。なんとか防空壕に飛び込み一夜を過ごした。翌朝、防空壕の戸を開けると父がいて、無事を喜び合ったという。
大空襲の2日前、東京方面に向かうB29を見て足がすくんで動けなくなってしまったのを「本番でそれでは死んでしまう」と母に叱咤されていた古谷さん。「それがなかったら、きっと逃げ遅れて死んでいた」
川崎大空襲後、横浜勤務の父と離れ、母の実家がある平塚市根坂間へ親戚疎開。平塚空襲の夜は、母と弟と日向岡に登って逃げた。「川崎の空襲を経験しているから、怖くて静止できずにいると、母は『記録だから、よく見ろ』と。強い人だった」。東の空が真っ赤に染まり、炎の反射でB29の銀色の胴体が見えるほどだった。
玉音放送を聞いた記憶はないが大人たちに終戦を知らされた途端「急に夏の暑さを感じた気がする」と古谷さん。機銃掃射を受けたこともあり、「九死に一生じゃなくて、万死に一生」と人生を例える。「戦争は個人の力では止められない。でも政治なら食い止められるかも。社会に関心を持ち、独裁的な考え方に反対することも大切」と、言葉を残していく。
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