平塚・大磯・二宮・中井 社会
公開日:2025.08.01
陸軍兵30人が本堂に
二宮町川匂在住 秋山さん
二宮町川匂の西光寺の住職・秋山光洋さん(92)は、旧制中学1年の時に終戦を迎えた。戦時中、本堂には陸軍の兵隊30人ほどが駐屯。早くに父を病気で亡くし、当時住職だった義理の父も海軍の衛生兵として徴兵され、男手は秋山さん一人。「でも、にぎやかだったのは鮮明に覚えている」と話す。
寺に滞在していたのは対戦車砲隊。沖縄の次に米軍が上陸してくるのは相模湾だという噂があり、それに真っ先に抗戦するための部隊だったという。「うちの大砲はタイヤがついていると、兵隊さんがよく自慢していた。キャタピラがついた箱みたいなもので、米軍機のレーダーに見つからないよう、裏山の竹藪に隠していた」。兵隊は終戦までの2年程滞在していたといい、「若い人はいなくて、おじさんばかりだった」と話す。
小田原にある旧制中学には二宮駅から電車通学した。終戦の年、小田原駅のホームで空襲警報が鳴り、戦闘機が間近に迫ったため、咄嗟に地下道に逃げ込んだことがある。攻撃が静まりホームに出ると電車が被害にあっており、操縦士が亡くなっていた。「座席は血がべったり。乗客のものだと思う。掃除する人もいないから」。電車は動かず、その日は市内の親戚の家に身を寄せた。
兵隊にチョコレートが配給された時、秋山さん家族にも分けてくれたことがあった。棒状のもので、1人1本、喜んで食べると、3歳の弟は泣き始め、兵隊も眠れずに大混乱。「包みをよく見ると、飛行中に3分の1食べろと。飛行兵が睡魔に襲われないようにするものだった。でも味は美味しいチョコで、忘れられない」と笑う。
玉音放送は隣の家で、正装をした兵隊たちと一緒に聞いた。鉄砲などに刻まれた「菊の御紋」をやすりで削る作業は、秋山さんも手伝ったという。1カ月ほどを費やし、兵隊は引き上げていった。
秋山さんは、小学3年生の時の担任教諭で、特攻隊として命を落とした志澤保吉さんの供養を続けている。「5年生の時に先生がひょっこり訪ねて来て、『飛行兵になったから、空から皆を守る。お父さん、お母さんを大切にしろよ』と。子どもながらに、天皇陛下のために体を鍛えて頑張れと言われなかったことに驚いた」。志澤さんの足が速かったこと、兄のようにやさしかったことなどを思い出しながら、「戦争になると、普通の人がみんな命を落としていく。そうならないように、生きていかないといけない」と話していた。
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