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平塚・大磯・二宮・中井 社会

公開日:2025.08.15

残ったのは「つるべ井戸」
平塚市宮の前在住 伊藤さん

  • 資料を手に、語り部の練習をする伊藤さん

 平塚市宮の前出身・在住の伊藤由紀子さん(90)は、第一国民学校(現崇善小)5年生の時に平塚空襲を経験した。

 1945年7月16日夜。「由紀子、早く起きて」。母に起こされ、玄関できょうだいの物と混ざった不揃いのズックを履いた。「空が真っ赤に燃えていた」。その光景に動転する祖母の手を姉と握り、妹、3人の弟を連れて家の外に出た。

 「何かあったら馬入の土手に逃げろ」。教員の父から言われていた言葉を思い出し、歩き始めると「グオー、グォー」とB―29の爆撃機の音と昼間のように照らす照明弾。その後焼夷弾が雨のように降り注いだ。「恐ろしくてとても歩けない」。近所の家へ逃げ込み、音が小さくなると必死で走り、やっとの思いで土手へたどりついた。

 夜が明け、家に近づくと近所の守山乳業の工場の焼け焦げたにおいがし、大勢の人が亡くなっていた。目をそむけたくなる光景が続いた。

 「私の家はどこ」。辺りを見回すと一面焼け野原で、目印の「つるべ井戸」を見つけ出し、自宅のあった場所がやっと分かった。

 その後の暮らしでは「常にお腹がすいていた」といい、家の手伝いでは「残った米が数粒でもあると食べられるから」と「釜洗い」が好きだった。必死に生き、終戦を知り、「もっと早く終われば、家も学校も無くならなかったのに」

次代へ語り続け

 40年間小学校教員を務め、退職前最後に勤めた平塚市立松原小での着任のあいさつで初めて経験を語った。「馬入の土手にも近いこの学区は、私たち家族の命を守ってくれた場所」。それをきっかけに教員たちの勧めで、全校児童に体験を話した。以来、中地区女性退職教職員の会「ゆりの会」に所属し、小・中学校、幼稚園や公民館で語り続けている。講演回数は80回に上り「聞く人に身近になるように、伝わるように」。語り部として経験を次代につなぐ。

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