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平塚・大磯・二宮・中井 社会

公開日:2025.08.15

焼野原生き延びた先に
二宮町山西在住 高橋さん

  • 取材に答える高橋さん

 二宮町山西在住の高橋テル子さん(87)は、生まれ育った須賀で平塚空襲を体験した1945年当時、第二国民学校の1年生。5人きょうだいの末っ子だったテル子さんは、10歳ほど年上の二人の兄が出征する際、近所の人と三嶋神社を参拝した後、旭日旗を掲げて見送ったことを覚えている。

 「逃げるんだ。早く服を着て」。7月16日の夜中、空襲のサイレンが鳴るとともに、叫ぶ親の声でテル子さんは飛び起きた。目立って狙われないようにと黒いものをかぶりながら、急いで着替えるのが大変だったと振り返る。

 母親はやかんに水を入れ、食料など生きるための最低限のものだけを持ち、テル子さんはカバンも持たずに飛び出した。今の134号線を超えた先の藪を目指す中、戦闘機がぐんぐんと近くなり「音がとにかく怖かった」と話す。「ふせろ」の声で必死に頭を下げてその場をしのいだ。

 藪を出た浜辺の波打ち際には同じように避難した人であふれていた。家族や知り合いを探す声を背に自宅方面を見ると煙が上がっており、後になって見に行くと焼野原になっていた。

 そんな光景に絶望しながらも避難先の納屋で親戚と会うと「無事でよかった」と抱き合った。

防空壕での勉強

 戦時中での学校生活は忘れられない。防空壕での勉強や、空襲警報が出た際に担任教諭が「死ぬときは一緒よ」と言って児童をかばってくれたことなど、鮮明に記憶している。

 8月15日に終戦が知らされた時は、「自分は小学1年生でよくわかっていなかったけれど、親たちは無口で少し寂しそうだった」と語る。

 終戦後は生き延びた家族と共に平穏に過ごし、同級生と10年ぶりに再会した同窓会には当時の担任教諭も参加した。

 「家族や身近な人々が生き延び、終戦後も会えた奇跡がうれしい」と話す一方、世界の情勢に、「なんでまだ戦争をやってしまうのか。絶対になくなってほしい」と平和を願い続ける。

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