平塚・大磯・二宮・中井 社会
公開日:2025.08.15
今も残るあの夜の焼夷弾
大磯町国府新宿在住 簑島さん
大磯町国府新宿在住の簑島敏明さん(90)は、国府村国民学校4年生の時に終戦を迎えた。今でも印象に残っているのは、二宮町の機銃掃射の音と、平塚空襲の夜の赤い空。「戦争の恐ろしさをまだわかっていなかった」と振り返るが、情景は鮮明に覚えている。
1942年4月18日、高来神社の祭りに行こうと、友人たちと連れ立って海岸沿いを歩いていた時、陸側から海へと米軍機が飛んで行くのを見た。湘南平の高射砲から、追い立てるように砲撃する音が聞こえてきたという。「米軍機を間近に見たのはその時が初めてだった」。太平洋戦争中、日本が初めて米軍による本土空襲を受けた日だった。
機銃掃射 伝わる振動
45年8月5日、米軍のP51による機銃掃射に見舞われ、JR二宮駅周辺で父を亡くした出来事を伝える、高木敏子さんの戦争体験記『ガラスのうさぎ』。簑島さんはその日、大磯町国府の自宅で近所に住む1歳年下の友人と遊んでいた時に「ダダダダダ」という大きな音を感じた。「二宮駅周辺がやられたと聞いたのは後から。当時はもっと近くにいる気がして怖くて家の中の柱の陰に隠れた」。家の中にいるにも関わらず伝わってくる振動に、逃れられない恐ろしさを感じたという。
祖母に手を引かれ林へ
45年7月16日深夜から17日未明にかけて平塚市街を襲った平塚空襲の夜、東の空が真っ赤に染まるのを簑島さんは家族と見ていた。同日、大磯町内も空襲に遭っており、特に簑島さんの家からも近い寺坂地域は被害が大きかったという。
空襲の夜、簑島さんは祖母に手を引かれ、ひのきの防風林のある近所の別荘跡地へと逃げた。「空が燃えているという感じだった。見上げながら逃げたのを覚えている」と簑島さん。後日、大磯町石神台にあった農地には、焼夷弾がたくさん落ちていたといい、「祖父が持ち帰ってきた」という1つを、簑島さんは今でも保管している。「こんなに重くて固いものが空から降ってきたなんて。戦争はやるべきじゃないと、伝えていきたい」と話していた。
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