戻る

平塚・大磯・二宮・中井 社会

公開日:2025.09.05

助け合いの記憶残り
明石町在住の長谷川さん

  • 取材を受ける長谷川さん

 平塚市明石町在住の長谷川則子さん(94=旧姓・山田)は、現在の中央地下道の近くにあった乾物問屋に生まれた。1945年7月16日深夜から17日未明にかけての平塚空襲では、妹と二人で逃げた経験もある。「すぐ隣で焼夷弾が直撃している人を見た。空襲警報が解除され、母が迎えに来てくれたとき、妹を助けただけでも自分の責任は果たせたとほっとした」と忘れられない夜を振り返る。

 平塚第一尋常小学校(現崇善小)1年生の時に病気で姉を亡くし、2人の兄と2歳下の妹、両親の6人家族だった長谷川さん。

 小学校卒業後は藤沢市片瀬の乃木高等女学校(現湘南白百合学園中学)まで、平塚駅から電気機関車を乗り継いで通った。

 戦争の影響で運転手も少なく、運行本数が足りないため、電気機関車はいつでも超満員。「窓から乗り込んだり、貨物列車に乗ったりしたこともある。人に揉まれて、肩で留めるワンピースの制服のボタンが取れないかとひやひやしてた」と笑う。

妹と逃げた夜

 平塚空襲の夜、長谷川さんは離れの倉庫の2階で妹と寝ていた。母屋にいた父に起こされ、枕元の防災ずきんを着け、救急袋に姉の位牌を入れて、竹べらを手に妹と海の方面に向かった。「一番上の兄は陸軍兵役学校に行っていたので不在。父、母、下の兄は家に残り、布団や畳などの家財道具を全部近所の空き地に避難させたそう」。次々に落ちてくる焼夷弾から上がる炎に砂をかけたり、竹べらで叩いたりして消火しながら、「きっと誰か迎えに来てくれる」と信じて、妹と心細い夜を過ごした。

 家族は無事だったものの、自宅は焼失、近所も焼け野原。俵のまま保管されていた砂糖は焼けて飴になっていて、道行く人に父が振舞うと、「まだあるか?」と訪ねてくる人もいたという。下の兄が学徒動員先の関東特殊製鋼からもらってきた古材でバラックを建て、畳を入れた時も、近所の人が「たまには畳で寝かしてほしい」と訪ねて来た。防空壕に入れていて奇跡的に無事だった柱時計は駅に向かう人たちが時間を確認しに見に来るほどだった。「大変じゃない人なんていないような状況だったから、みんなで助け合った記憶もたくさんある」

 お盆には孫たちが集まり、戦争の話を初めて聞かせたという長谷川さん。「平和は待ってたって来ない、自分たちでつくるものだと伝えたい」と話していた。

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

平塚・大磯・二宮・中井 ローカルニュースの新着記事

平塚・大磯・二宮・中井 ローカルニュースの記事を検索

コラム

コラム一覧

求人特集

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS