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平塚・大磯・二宮・中井 社会

公開日:2025.09.12

引き揚げの記憶、忘れぬ味
平塚市南金目在住 中村さん

  • 母の日記や「引揚者国庫債券」を手に取材を受ける中村さん

 平塚市南金目在住の中村寛志さん(82)は、北朝鮮の港町・興南で生まれた。「カレイやタラがよく獲れる地域で、今でも大好物。5歳の頃に日本に引き揚げてきましたが、食べ物のことや、船での光景など、印象深いことは今でも覚えている」と話す。

 父方の祖母は一攫千金を目指して北朝鮮に渡って旅館を開き、母方の祖父母は東京都深川から北朝鮮に移住し、薬局を営んでいたという。島根県から北朝鮮に渡り、現地の将校学校を卒業した父と、北朝鮮生まれの母を持つ中村さんは、父が勤務していた日本窒素肥料の社宅で暮らした。

 「オンドルという、かまどで火を炊くとその空気が床下を通って部屋全体が暖まる朝鮮の伝統的な平屋だった」と中村さん。柳行李に入れた小さなリンゴが、一晩で凍ってしまうほどの寒さだったという。

 忘れられない味は、風邪を引いた時に父が市場で買ってきてくれた冷麺だ。「飯盒を持って市場に行って、つゆと麺を入れて帰ってきた。熱が出て食欲が落ちた時に、すごくおいしかった。今でも冷麺は本場のものしか食べません」

「宗谷」で舞鶴へ

 終戦後も父は日本の技術者として北朝鮮に残る必要があり、3年程を北朝鮮で過ごした。「朝鮮動乱の気配がある。ソ連軍が来るかもしれない」と、1948年7月6日、引き揚げ船「宗谷」に乗って父、母、妹と家族4人で帰国した。

 元山を出港し、京都府舞鶴へと向かう船に、陸軍や海軍の軍人のほか、一般邦人など1282人が乗船。船倉で雑魚寝状態だったといい、「クジラのスープが大きいバケツに入って回ってきた。その時も熱を出していて、父がおんぶして甲板に連れて行ってくれ、ほてった身体が冷えて気持ち良かったのを覚えている」。帰国後は親族を頼って鳥取や新潟などで暮らした。勤務先の研究所ができたことから、平塚に移り住んだ。

 引き揚げ間近で人もまばらの中、妹が百日咳に罹った時、現地の医者を訪ねたことがある。「そのお医者さんは、自分の子どものためにとっておいた抗生物質を妹に提供してくれた。侵略してきた日本人としてではなく、人として接してくれた。それを思い出すたびに、そもそもなぜ日本人が朝鮮に渡ったのか、そのことに対して、考えなくちゃいけない」と中村さんは話していた。

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