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日本国憲法の制定過程から学ぶ 大磯と旧吉田茂邸 〈寄稿〉文/小川光夫 No.58

公開:2011年2月11日

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庭から撮影した旧吉田茂邸
庭から撮影した旧吉田茂邸

58 大磯と旧吉田茂邸

 大磯町役場にある「大磯旧別荘郡地図」に沿って、大磯駅から歩いて行くと、明治・大正時代及び初期昭和時代の元勲や財閥、学者、医者、作家、歌人などの邸宅や別荘が次から次へと出てくる。これらの人達だけをとりあげればまるでこの町はエリート集団の特別な町であるかのような錯覚を受ける。多くの者は明治時代に活躍した人達で、誰もが歴史の教科書に出てくる。そんな由緒ある大磯町であるが、では戦後の活躍した人達はどうかというと、吉田茂以外に思い浮かべる人物はなかなかいないのではないか。終戦のどさくさの最中では政治家達も何処にいるか分からない状況下にあった。楢橋渡が長野にいることをようやく探し当て、政府は彼を上京させたほどである。

 戦後の混乱の中で、当時の政治はほんの一握りの政治家や官僚などによって行なわれていたことが想像できる。なにせお茶の水のニコライ堂から富士山がはっきりと見ることができるほど、東京は一面が焼け野原と化していたのであるから。そのことを考えれば日本国憲法草案に関わった代表的人物である吉田茂、白洲次郎、楢橋渡などが大磯町に住んでいたこと自体凄いことなのである。

 大磯の町歩きの一つとして、是非「日本国憲法の制定過程への道」と称して次のコースをお奨めしたい。まず、最初に樺山愛輔邸(現大磯ライオンズマンション)に立ち寄り、老松を眺め樺山資紀、樺山愛輔を思い浮かべる。そして白洲次郎と樺山正子とが新婚生活を大磯で過ごしたこと、また鴫立沢では西行法師の残した名歌を口ずさむだけでなく樺山正子が幼い頃に遊んでいたことに思いを馳せる。それから1号線を二宮町に向って歩いて行き滄浪閣では伊藤博文公の足跡についてだけではなく、楢橋渡書記官長が滄浪閣を購入して民政局の人達を招き憲法草案の真意を確認しようとしたことを思い起こし、何故滄浪閣が北京料理の専門店であったのかも考えてみることもよいのではないか。その後、三井財閥の番頭として活躍した滄浪閣の隣の池田成淋邸を訪ね、さらに吉田邸へ行く前に城山公園も見学し、三井総本山高棟の別荘跡や資料館などをも是非探索して欲しい。最後に城山公園から吉田茂邸に向うのであるが、現在、吉田邸は火事により敷地内には入ることはできない。しかし施錠されている門前から、中の様子を窺えば、自然は燃えないで残っているところも多く、閑散とした敷地内に吉田茂邸を偲ぶことが出来る。

 上記の冬景色の写真は旧吉田邸の庭から少し離れたところから写したものであるが、左に見えるガラスで被われている建物はアーチ状のサンルームである。冬でも暖かく蘭やカトレヤなどが見事に咲いていた。今となっては貴重な写真である。

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