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日本国憲法の制定過程から学ぶ

大磯の吉田茂像と講和条約

〈寄稿〉文/小川光夫 No.59
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59大磯の吉田茂像と講和条約

 1号線の道路から門を入っていくと内門に差し掛かる。この茅葺き屋根のある門はサンフランシスコ講和条約の締結を記念して建てられたことから「講和条約門」と呼ばれているが、形が兜に似ていることから兜門ともいわれる。また大磯海岸に面した丘の上には「吉田茂像」が威風堂々と立っている。この像は内門がサンフランシスコ講和条約を記念して建てられたように富士山を背にサンフランシスコに向って立っている。講和会議は吉田茂にとって、日本の今後の行く末をかけた大勝負であった。その思いが「講和条約門」や「吉田茂像」に現われている。当時、吉田は、「今の日本では再軍備しても自由党は崩壊するし、経済的な負担も大きい」「日本が自由主義諸国のみと講和を結ぶのならば、国交を回復しても西側の一員に組み込まれ、東西冷戦の渦中に押し込まれる。したがって日本は永世とはいわないが中立国としてソ連や中国とも講和をすべきである」と考える。またアメリカからの圧力については「再軍備ほど経済の負担を大きくするものはなく、今の日本にはその力もない。アメリカの作った平和憲法草案を利用して、それを前面に押し立てて、小規模な自衛隊をつくって再軍備をストップさせよう」と考えていた。しかし吉田は独立国家となるにあたって、米ソ冷戦下では自衛隊だけでは心許ない、とも考えていた。そこで1951年9月のサンフランシスコ会議では48カ国に対して講和条約を結ぶだけでなく、すぐさま日米安全保障条約をも締結した。日米安全保障条約によって吉田は「占領軍がそのまま日本に残ることは不平等条約を容認することにもなるが、日本に米軍が駐留しているかぎり、日本が他国から攻撃されれば米軍がその攻撃に対して攻撃する」と判断した。吉田は決してアメリカに屈した訳ではない、「アメリカにいかに日本を守らせるか」について、米ソ冷戦下の外交の難しい時代に網の目も潜るような綱渡りをやって見せた。だから日米の調印式に池田勇人なども出席していたにもかかわらず自分だけが署名したのである。また、吉田の講和会議での第一声は、奄美大島、小笠原群島その他国連の統治信託におかれる諸島の主権を日本に残してくれた米英全権に対する感謝の発言から始まり、続いて千島列島、南樺太の地域を侵略したソ連を鋭く批判するなど、我が国の国家主権の主張であった。これまでの日本の政権は弱腰外交と利権への執着が続き、折角世界で類を見ない高度経済成長を遂げたにもかかわらずその経済力が全く生かされていなかった。それに対して現在の中国は、経済成長を利用して世界に向って戦略的に動いている。もしも、吉田茂が生きていたならば、中国や北朝鮮などの脅威はなかったかも知れないし、ソ連邦の崩壊時には北方四島もゴルバチョフから返還されていたか、あるいは購入されていたかも知れない。

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