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日本国憲法の制定過程から学ぶ 大磯の吉田茂 〈寄稿〉文/小川光夫 No.66

公開:2011年4月15日

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 吉田茂は、1879年(明治11年)に土佐自由党の竹内綱の五男として生まれた。親友の貿易商吉田賢三に子どもがいないことから幼くして養子に入り、麻布の中学を卒業し学習院で学んだ後、1906年(明治39年)に東京帝国大学法学部を卒業して外交官となった。さらに1909年(明治42年)に牧野伸顕の娘、雪子と結婚して、岳父を通して宮廷グループとの交流を深めた。当初、吉田は外交官として奉天など中国に長く勤務して寺内正毅、田中義一などと交流を深め、中国における日本の権益を主張していたが、英国大使になってからは、対英との協調を推し進めた。吉田は、アメリカのグルー駐日大使など欧米外交官と親交を深め、日独伊の三国同盟に反対し、日米戦争開戦後は岩淵辰雄等と共に東条英機首相や軍部を批判し、和平工作を進めた。このため、1945年(昭和20年)5月、憲兵隊に逮捕され代々木の陸軍刑務所に収監された。その後の吉田の日米外交については特筆すべき点があるのでもう一度吉田とダレスとの関係について触れておこう。

 1950年(昭和25年)6月、いよいよ朝鮮戦争の勃発が囁かれる頃であった。アメリカのダレス特使が慌ててやって来て、吉田をGHQに呼び出した。ダレスは「ソ連と中国の勢いは止まることを知らない。朝鮮半島は今にも戦争が勃発する状況下にある。日米講和条約が締結されれば、アメリカは日本から引き揚げることになるので、日本は再軍備をすべきである」と迫った。吉田は、「今にも倒れそうな痩せ馬(日本)に重荷を背負わせれば倒れてしまう」というのが持論で、軍事費さえなければ日本はやっていける、今はその時ではない、と思っていた。吉田は、こう切り出した。「憲法第9条の発案者が、マッカーサー元帥であれ、幣原元総理であれ、日本が平和国家であることを世界に認知させることが目的であったことを私は疑わない。私は当時閣僚の一員として第9条に託した期待は、日本の信用回復によって一日も早く独立国に立ち返りたいということだった」と述べてダレスの誘いに乗らなかった。話がまとまらないなか、マッカーサー元帥は分厚い書類を持ち出して、「首相のいうことも分かる。ついては、ここに日本の旧陸海軍の旧施設で遊休工場となっているものが多数ある。これを活用してアメリカの軍備増強に役立てるのはどうか」と折衷案をだしてダレスを納得させた。この分厚い書類は吉田茂がそうなることを予測して予め元帥に渡しておいたものであった(しかし、この吉田の渡した書類によって日本全国に米軍基地が建設され、新たな火種を生み出すことになる)。吉田は警察予備隊、保安隊、自衛隊においても同じ発想で極力隊員人数を押さえた。吉田は、国会の答弁では再軍備を考えていないといい、保安庁では「諸君は国軍の土台になれ」と激励した。吉田の答弁は、相手によってその防衛論も微妙に変化した。実は吉田は平和国家であることを否定した訳でもなく再軍備も否定した訳ではなかった。国際社会にしたたかに生きていくことこそが吉田茂の真髄であった、と思う。現在、日本は絶対平和非武装中立であるという人達と、経済大国になったのだから軍事的にも責任を果たさなければならない、という人達とがいる。吉田茂はこう言う。防衛力を抽象的に捉えてはいけない。ディプロマチックセンス(外交的感覚)のない国は滅びるのだ、と。

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