大磯・二宮・中井版 掲載号:2011年7月15日号
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日本国憲法の制定過程から学ぶ 大磯に住んでいた古河市兵衛と陸奥宗光 〈寄稿〉文/小川光夫 No.77

旧古河庭園
旧古河庭園

 かつて大磯の1号線沿いの松並木沿いに旧古河市兵衛邸とその隣裏に旧陸奥宗光邸があった。三井の益田孝が大蔵次官井上馨の支援を受けて三井物産を立ち上げたことについてはすでに述べたが、古河財閥の経営者古河市兵衛(いちべい)も大蔵次官補渋沢栄一の支援を受けて財界にのし上がっていった。古河市兵衛の幼名は木村已之助という。安政4年に京都小野組の古河太郎左衛門の養子になり古河市兵衛と改名した。渋沢栄一が経営していた第一銀行の経営が不振であったことから、古河は資産、資財を投げ打って第一銀行を護ったことから渋沢栄一の信用を得るようになった。その後小野組から独立した市兵衛は渋沢から融資の内諾を得て新潟県の草倉銅山の払い下げを受けて鉱山経営に着手した。その後市兵衛は足尾銅山を買収するが、渋沢は足尾銅山買収においても市兵衛の共同経営者として名を連れた。当初足尾銅山は、江戸時代に濫掘され採掘は難しい状態にあると言われていたが、1881年(明治14年)に大鉱脈を発見して古河財閥の発展をもたらすことになる。しかし鉱山の発展は、一方では足尾鉱毒事件としてクローズアップされた。

 一方、和歌山出身の陸奥宗光は幕末には勝海舟の海軍訓練所に入り、その後海援隊にも加わった。維新後は伊藤博文の勧めでヨーロッパ留学を果たし、山縣内閣の時に農商務大臣に就任した。市兵衛と陸奥宗光との関係は、渋沢の上司が陸奥であったことから始まるが、市兵衛には子どもがないことから、陸奥の次男潤吉が市兵衛の養子となりさらに親密になっていった。1891年(明治24年)に足尾鉱毒事件について帝国議会で田中正造からの質疑に答えたのも陸奥宗光であった。

 1903年(明治36年)市兵衛が死んだことにより、養子の潤吉が市兵衛の後を継いだ。上の写真は、古河財閥三代目古河虎之助が1917年(大正6年)に陸奥宗光の屋敷跡に建てたものである。敗戦でアメリカに接収されたが、現在では「旧古河庭園」として東京都が管理している。

 庭園内の建物の玄関や全体の作りは、鳩山御殿とどことなく似ており、庭園は一年中美しいバラや花菖蒲、椿などが咲き誇っている。陸奥宗光は肺結核を患っていたことから、外務大臣を辞任した後は大磯の別邸である聴漁荘に住むことになるが、古河市兵衛の邸宅もその隣にあった。

 現在、大磯の陸奥邸は、古河電気工業が管理している。
 

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