日本国憲法の制定過程から学ぶ 日本の国家主権と憲法 〈寄稿〉文/小川光夫 No.98
日本人は国家主権についてどのように考えているのだろうか。
ロシア連邦憲法第4条には「ロシア連邦の主権は、その全土に及ぶ」、「ロシア連邦は、その領土の保全と不可侵性を保障する」とあり、その全土の中には北方四島も当然含まれている。メドベージェフ大統領の北方四島の訪問もロシアの国家主権を世界に認めさせようとするものである。一方、GS(民政局)の運営委員会でハッシーやケーディスが作成した日本国憲法前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起らないように、主権が国民に存する・・・恒久の平和を念願し、・・崇高な理想を深く自覚し、平和を愛する諸国民の公正と真義に信頼して、われらの安全と生存を保持しょうと決意した」と、理想を掲げているだけで国家主権という言葉は何処にもない。日本国民は、主権というと国民にあり、国民主権が一番大事であると思っているようであるが、国民主権は領土と人民が守られて初めて存在するものであって、公正と信義に信頼できない国家によって領土が奪われ、人民が排除されることにもなれば国民主権どころではなくなる。
アメリカはルーズベルト時代には、米ソ協調主義的な外交路線をとっていたが、それは戦後の初期対日占領政策にも影響を与えていた。GHQのニューディーラーと呼ばれる民政局の民主化政策は日本共産党の主張するものとほとんど変わらず、共産党はニューディーラーの良き相談役であった。GHQの初代労働課長カルピンスキーは共産党の志賀義雄と会って「共産党は日本の民主化にとっての柱である」と述べているし、GSのジョン・エマーソンはコミンテルンの執行委員の後、中国の延安(えんあん)で中共軍とともに反日運動を続けていた共産党の野坂参三と会って意見を交わしている。また共産主義者ノーマン(カナダ人)なども府中の刑務所に拘禁されていた志賀と面会している。そうした共産主義的な流れは民政局による日本国憲法改正草案だけでなく日本国民の思考にも大きな影響力を及ぼした。
17・18世紀のヨーロッパにおいては、国王による専制政治に対して市民革命が行われて民主主義が確立された。しかし19世紀にもなると、資本主義の利潤獲得競争による弊害が指摘されるようになり、20世紀に至っては革命によって唯一社会主義国家を実現したロシア(ソ連)こそが理想の国家であるという考え方が受けいれられるようになった。
戦後の日本の民主化政策は、主に共産主義を理想とするGSによって行われ、公職追放やプレス・コード(出版規制法)による思想統制が行われたが、それは日本国憲法改正草案の中にも残されている。また、ウイロビーとの抗争の際に敗れたGSのホイットニーやケーディスの解任後も、日本の若者の間では革命的思想がもてはやされた。マルクス、レーニンは大学生から神様のように崇められ、革命思想は彼らの青春時代を象徴するものであった。
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