二宮ゆかりの画家 連載第13回 二見利節(としとき)・その生涯
孤独の利節
一人になった二見は、母の助けを借りながら画業に熱意を燃やすとともに、彼の持つ「存在(ぞんざい)理論」すなわち「在る、在らす」の論の究明に邁進するのである。森田英之は次のごとく書いている。利節は「存在(そんざい)」を「存在(ぞんざい)」と発音した。
昭和三十五年六月から一握りの麦をモチーフにして、二見の存在理論の実践とも云うべき麦シリーズの展開が行われる。一握の麦、この麦のフォルムの凝視は、生じて沸き上ってくる多様なイメージを展開させるのに良いモチーフであった。理性の構造体であったフォルムは、次第に弱くなり、妙にオートマチックな線描が主体をなしてくる。そして無意識のうちに不合理的なものへの転換が、二見の世界へ入りこんでくる。「私は自分を造る為に、此の麦の連作を描く必要があったのです。自分を在らしただけで、其の自分とは筋を見て、デッサンするだけで良いので、朱色は凡て自分と云うものなので、朱で自分を定めておいた画なのです。僕の画は狂人の画、狂を大事にせねばならぬこと、故に狂は意識外の天理の大事なもの……」こうして麦シリーズの展開の後、コンテによるオートマティズムの展開が二年の間黙々と行われた。擦り込んだコンテの色面空間を、ピンセットと脱脂綿が無気味に這いずりまわる。その軌跡に白い線が残る「なぜそうゆう画を描くのか、僕にも解らないのです。あらせた実。をすると言うけれども何にもあらせたものはないのです。……今度の画は何だか解らない、さっぱり解らない。在るものが在るものでないから見当が付かないのだ。もともと僕が描くのではないが、こんな解らぬものはものにならぬ、……僕ではないよ。仏と云うものが描くのだよ」……作品の裏面に残された彼の文がつぶやく。この様に仏に仕える僧が念仏を唱える如くコンテ画に白い線抜きオートマティズムを続ける中にコラージュによる作品デカルマニー(偶然できる形態の定着)を試みたものが生まれてくる。
画面基材は、白いワラ判紙から白ランヤ画材は、コンテからクレヨンとなり、クレヨンを塗り重ねドローイングと云うより、クレヨンの上からスクラッチによるドローイングとなって線の造形に展開してゆく。そのクレヨン画面へのスクラッチによるドローイングには、クレー、ピカソ風などデフォルメをした具象形態が表現されて来た。こうして二見利節の芸術展開は大きく変貌する。明らかにモチーフ、対象は自由に変形されピカソ風な人物形態はイメージを伝えるためのものが画面に残され、その他の形態に組み込まれて、不可思議な空間をあらわす。
※「二宮近代史話」(昭和60年11月刊行)より引用
二宮町にアトリエを構え、創作活動に打ち込んだ洋画家二見利節(1911〜1976年)の生涯を紹介しています。
|
|
|
|
|
|
3月29日