明治150年記念連載 大磯歴史語り 第6回「山縣有朋【1】」文・武井久江
今回から、シリーズ第2弾山縣有朋公です。山縣公は、3代・9代と総理大臣を務められ、出身は長州藩(現在の山口県)です。天保9年(1838)4月22日生まれ、父の有稔は長州藩蔵元付仲間組という、足軽より身分が低い武士でした。家族は両親と祖母、それに姉がいましたが、母の松子は山縣が4歳の時、父の有稔は23歳の時に亡くなり、27歳の時には祖母が入水。家庭環境に恵まれなかった山縣はのちに「狷介―けんかい」〜頑なと言われる性格を形成したと考えられます。幼名は辰之助、通称は小助のちに小輔、更に狂介(松下村塾で改名)、明治維新後に有朋となります。少年時代の山縣は槍術で身を立てようとしていました。稽古量はもの凄く、庭の無花果を槍で突きすぎて枯らしてしまったとか。そんな山縣について、明治20年(1887)から古稀を迎える明治40年中ごろまで大磯町に別荘を構えて暮らしていた頃の話も交えながら語ります。
山縣が松下村塾に入るきっかけは、安政5年(1858)、藩が若者6人を京都に派遣することが決まり、その一員として選ばれた事でした。藩随一の俊英といわれた久坂玄瑞(松下村塾四天王の一人)と出会い、その久坂から松下村塾を紹介されました。山縣は京から戻ると直ぐに松陰の門下生になります。しかし、2カ月後に松陰は獄(国禁を犯した罪で)に送られてしまうのでした。松陰の門下生となったということは、出自(身分の事)の低い山縣が世に出る一助となりました。松下村塾の思想の中心は「尊王攘夷」であり、長州藩の基盤にもなっています。文久3年(1863)長州藩は関門海峡(馬関海峡)を通過する外国船を3度にわたり砲撃したことに対し翌年、報復に遭い、この事から高杉晋作が身分に関わらず人材を集める奇兵隊を編成します。そして親しくなった山縣を奇兵隊軍監に任じます。今回はここまで。(敬称略)
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