大磯歴史語り 〈財閥編〉第2回「岩崎弥之助(弥太郎)」 文・武井久江
今回から「三菱財閥」創始者・岩崎弥太郎を語ります。大磯に2代目弥之助が別荘を構えた時(明治22年)には、弥太郎は既に50歳の若さで、胃がんで亡くなっていました。その壮絶な人生を綴ります。
土佐国安芸郡井ノ口村一之宮(現・高知県安芸市井ノ口甲一之宮)地下浪人・岩崎弥次郎・美和の長男として生まれる。弟・弥之助は、その17年後に生まれます。弥太郎は母の厳しい教育の下、江戸に出て学問を学ぶために、昌平坂学問所教授・安積艮斎の見山塾に入塾して勉学に励みます。そんな時、安政2年(1855)、父親が酒席で庄屋と喧嘩になり投獄されました。母は、迷いました。弥太郎に事実を伝えれば、父親思いなので、すぐにも学問を中断して帰国するだろう。ですが投獄が一向に解かれなかったので、母は思いあぐね弥太郎に伝えます。弥太郎は案の定塾を辞め、江戸から土佐まで普通の人の1・5倍の速さで走り続けて帰国したそうです。すぐさま奉行所に訴えましたが、証人が庄屋の味方をして、奉行所は聞き入れてはくれない事に腹を立て「不正を罷り通すが奉行所かよ」と訴え、壁に墨で『官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す』と書いたことから投獄されてしまいます。この時、獄中で同房の商人から算術・商法を学んだ事から、後に商業の道に進む縁が出来ました。
出獄後、村を追放されたのが安政5年(1858)当時蟄居中の吉田東洋(後藤象二郎の義理の叔父)が開いていた少林塾に入塾し、後藤らと知り合います。そして東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に清朝の海外事情の調査に派遣されますが、資金が足りなくなって無断で帰国したため罷免され官職を失います。この頃、27歳で弥太郎は借財をして郷士株を買い戻し、その時期に郷士・高芝玄馬の次女・喜勢と結婚。この後、東洋が武市半平太らの勤皇党によって暗殺されると、その犯人の探索を命じられましたが上手くいきませんでした。慶応3年(1867)、東洋門下の福岡藤次に同行を求められ長崎に。その頃、土佐藩は開成館長崎商会を窓口に欧米商人から船舶や武器を輸入、藩物産を販売したりしており、東洋の甥・後藤象二郎が弥太郎を主任に命じて貿易商人と取引し、坂本龍馬が脱藩の罪を許され、海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の残務整理を担当することになりました。今回はここまで。(敬称略)
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