大磯歴史語り〈財閥編〉 第11回「岩崎久弥」文・武井久江
明治24年(1891)10月に米国留学から帰朝した久弥は、三菱社の副社長に就任します。その頃、大磯駅前の現エリザベス・サンダースホームがありますあの地を、叔父の弥之助が購入しています。さらに同時期(財閥編・第6回・岩崎弥之助の時のお話を詳しく語ります)、丸の内の兵営跡地など10万余坪を陸軍省から購入しました。この土地払い下げは、財源に苦しむ政府が麻布に新兵舎を建設するための費用を捻出しようとしたもので、政府の希望価格は相場の数倍でした。当然買い手がつかず困り果てた松方正義蔵相が自ら弥之助を訪ね、政府を救うと思って買い取るように懇請しました。国家に尽くすのは三菱の社是ですので弥之助は苦慮した末に、高値購入を決断しました。契約名義人は「岩崎久弥総理代人・岩崎弥之助」(後に商法が整備されてから三菱合資会社が買い取りました)。代金は128万円。当時の東京市の予算の3倍というから大変な買い物でした。そして、藪だたみのこの地に東京駅が完成し丸の内が交通の要所になったのは、ずうーっと後の大正3年でした。そこに何十年も前から、丸の内にビジネス街の青写真を作り、明治26年に久弥が三菱合資会社の社長に就任。翌年27年にジョサイア・コンドル設計による、記念すべき三菱1号館が、現三菱商事ビル本館の位置に竣工しました。赤煉瓦造りの3階建てで、三菱合資会社他2社が入り、以後2号館が現在の明治生命本社ビルの位置に、そして3号館、4号館と出来、ロンドンを彷彿とさせる街並みはやがて、「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれるようになりました。
久弥が社長をつとめた明治から大正にかけての20余年は、日清・日露の戦争を間に挟んで、日本の近代産業の勃興と発展の時期でした。久弥は幹部たちの意見に耳を傾け、弥之助によって進められた事業の多角化をひとつひとつ確実なものにしていきました。長らく久弥に仕え銀行の会長もつとめた加藤武男が彼の人物像を語っています。「人の話を丁寧に相槌を打ちながら、よく聞いてくれました。その話の間に人を見抜き、事業の将来性も見極めていました」。久弥は、人を信頼し人に信頼されるという、人の上に立つ者に必要な資質を持っていました。弥之助が、弥太郎の遺言とはいえ、まだ28歳の久弥に三菱の総師を譲れたのは、自分を含め脇を幹部が固めてくれたからです。どんな凄い人でも一人でできる限界があります。久弥はそこもしっかり踏まえた人でした。(敬称略)
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