なんつッ亭大将 古谷一郎 【私の履歴書】 シリーズ 「我が人生の歩み」 第2回・暴走族になり、高校は退学へ
どちらかと言えば、恵まれた環境で育ち、クラスでも人気者だった僕が、何故、不良と呼ばれるようになってしまったのか?思い返してみると、そもそものきっかけは、姉の彼氏の影響が大きかったと思います。優等生で非の打ち所がない姉が、どういう訳か隣町の札付きのワルと付き合うようになりました。何処か安っぽいドラマのような話ですが、優等生が不良に憧れるというのは現実にもあるようで、姉は自分にないものに魅力を感じてしまったようです。勿論、両親は二人の交際には猛反対。でも、一度燃え上がった恋心は誰にも止められない(笑)。賢い姉は両親の目眩しの為に、僕をダシに使い、僕と出掛けると言って、両親も安心させる作戦に出ました。僕がついて行った先は、おっかないお兄さん逹の集団。派手な格好でバイクを乗り回し、夜の街を我が物顔で走り回る様を見て、僕までもが、今まで味わった事のないような感覚に心を鷲掴みにされました。「か、か、格好いいじゃんか・・・」。
斯くして、僕の暴走族への道が幕を開けていったのです。とは言え、所謂、専業暴走族ではなく、昼間は高校に通い、夜はバイクで走り回るという言わば「二毛作暴走族」。秦野にはその当時、学生会という各高校のワルたちが集うグループもあり、もちろんそこにも所属していました。
親となった今よく考えてみれば、両親や姉には本当に心配や迷惑をかけてしまったと思います。お婆ちゃんが亡くなった時は、お袋が僕にお金を渡してきて、頼むから今日は家に帰って来ないでくれと言ってきました。よほど親戚に僕の変わり果てた姿を見せたくなかったのでしょう。でも、そんな両親や姉の気持ちなどお構いなしに僕は暴走族街道をまっしぐらでした。暴走族の仲間との毎日は、僕にとって刺激的で正直面白かった。子どもの頃は意外に真面目でしたので「ツッパリ」は格好良いと思っていましたし、暴走族の仲間と一緒にいるのは高校の友達との時間より居心地が良かったのです。それというのも僕の通っていた高校は中の上くらいの一応進学校で、校則がやたら厳しく、真面目な生徒が多かったからです。高校で感じる息苦しさが、暴走族の仲間といる時には全く感じなかったのです。今考えれば、僕がそこそこの高校に通っていて、暴走族仲間からは頭がいいと思われていたのも、僕が居心地の良さを感じる原因だったのかも知れません。
そんな、あまり居心地の良さを感じていなかった高校生活ですが、僕はちゃんと卒業するつもりでいました。でも、一年生の時に同級生や他の街のワルとの喧嘩で二度の停学処分を受けてしまいました。停学明けのペナルティが中々のもので、毎日授業開始前に校長室の掃除をする事と、放課後は教頭先生が自転車でついて来ながら、高校の周りをマラソンするのです(笑)。僕としては、もう後がないですし、退学だけにはなりたくなかったので、毎日そのペナルティを真面目にこなし、無遅刻無欠席を達成しました。ただ、やはりバカは死ななきゃ治らない(笑)。夜の暴走生活も真面目にこなしました。そんな生活が続く筈もなく、寝不足から学校ではほとんど寝ているようになり一年生の時はまあ良かった成績も二年生になった時は下から数えた方が早いくらいまでだだ下がり。このままじゃマズイ!そう思いながらも暴走生活はやめられない。そんな生活が続く筈がないですよね?ちょうど二年生の夏休みを過ぎたあたりで、僕は暴走族で警察に捕まってしまい矯正施設に行くことになってしまいました。その時の担任や学年主任の先生が僕を必死にかばってくれたそうですが、他の先生方は、満場一致で辞めた方がいいとの意見だったようで、担任の先生に力不足でごめんと言われ、僕はやむなく高校を退学する決意をしました。それまではワルとはいえ、学校という規範の中にいましたからバカな僕でも多少のブレーキがありましたが、その最低限の規範すら失ってしまった僕の人生は、まるで糸の切れてしまった凧のようになり、そこからが本当の転落人生が始まるのです。
(次号に続く)
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