なんつッ亭大将 古谷一郎 【私の履歴書】 シリーズ 「我が人生の歩み」 第3回・もがくほど深みに
高校生活という最低限の規範すら失ってしまった僕でしたが、とにかくやり直そうと考えて調理師学校に入学しました。その頃は、調理の道に進みたいという明確な目標があったわけではないのですが、実家が食堂ということもありましたし、何かしなきゃと焦る気持ちばかりが先行して何となく入学してしまいました。明確な目標もないまま入学したところで、それが続く筈もなく、その調理師学校もあっという間に退学してしまったのです。
その頃の僕は、暴走族の仲間と一緒にいるというよりも、更にダメな方に進んでしまい暴力団のお兄さん方と行動を共にすることが多くなっていました。そうなると暴走族の仲間でさえ、僕から段々と離れていってしまいます。自分の周りから仲間が離れていくから、またどんどん深みに嵌っていってしまう。朱に交われば赤くなるとは良く言ったもので、気付いた時には、暴力団のお兄さん方の手伝いをしたりして、チンピラまがいの事をやるようになっていました。
普段、街で恐れられていたり、嫌われているような暴力団のお兄さん方は、とにかく優しかったし面倒見が良かった。美味しいものを食べさせてくれるし、お金も沢山くれる。社会から見放されてしまったような感覚に陥っていた僕は、どんどん深みに嵌っていきました。
そんな荒れ果てた生活を送りながらも、どうにか昼間は、まともな仕事をしなくては、という思いだけはあったので、先輩の左官屋さんでアルバイトをさせてもらったり、実家の食堂を手伝ったりもしましたが、どうしても暴力団関係者との縁を切ることが出来ずに仕事は長続きしませんでした。仕事を辞めてしまえば、また必然的に暴力団のお兄さん方との付き合いが復活してしまう。そんな事を繰り返している間は、警察にも何度もお世話になりましたし、薬物事犯で、再び矯正施設に入れられてしまった事もありました。警察に逮捕されて、連行される僕の姿を見る両親の悲しい顔が今でも目に焼き付いています。
社会復帰後も意志の弱い僕は、なかなか暴力団関係者との縁が切れずにいました。地元にいては同じ事を繰り返してしまう、そんな想いから東京に出て親父の友人の経営する中華料理店やイタリアンで働かせてもらいましたが、どちらも結局長くは続きませんでした。その頃は、何をやり始めても、自分に都合のいい言い訳を探しては中途半端で投げ出してしまう。そんなことを繰り返していましたから、唯一の味方であった両親や姉も、僕の事を半ば諦めかけていたかも知れませんよね。何度も、次こそは、とやってみるものの、どの仕事も長続きする事はなく、言い訳ばかりしていましたから。
よく、人生の転機という言葉を目や耳にしますが、多少痛い目にあっただけでは人はそう簡単には変わったり、生まれ変わったりは出来ないと思います。いや、中には出来る人もいるのかも知れませんが、少なくとも僕は、変わる事は勿論、生まれ変わる事なんて一切出来ませんでした。勿論、今の僕は、あの当時の僕とは違います。生まれ変わったなんて大袈裟なことは言えないですが、あの当時とは違い、それなりに責任を負っているつもりですし、僕なりに努力を積み重ねてきたつもりです。結局は、人を変えるのは小さなきっかけの積み重ねでしかないと思いますし、また自分自身が心の底から変えたいと強く願い、思い続ける事でしかないのだと思います。
僕が何をやって生きて行けば良いか分からずに同じ事をただ繰り返し、もがき苦しんでいたあの頃に、お袋が僕によく言ってくれた「信用を失うのは一瞬、取り戻すのは一生」という言葉や「人の口に戸は立てられない」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。両親が健在だった時は、憎まれ口ばかりを叩いてしまっていた僕ですが、両親を共に亡くしてからは、何故か思い出すのは両親から言われた言葉ばかりだから不思議ですよね。
東京での仕事も辞めてしまった僕は突然、高校くらいは卒業しておいた方がいいと思うようになり、地元秦野に戻り、昼間働いて夜は定時制高校に通う事を決めました。そう書くと、ここからが、ようやくバカな僕の更生物語が始まるのか?と期待する方もいらっしゃると思いますが、どっこいまだ更生には程遠いのです。どうかみなさま、ここで読むのを終わりにせず最後までお付き合い下さいね。
(次号に続く)
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