なんつッ亭大将 古谷一郎 【私の履歴書】 シリーズ 「我が人生の歩み」 第4回・27歳まで僕は「逃げ続けた」
普通に考えれば、全く必要のない様々な経験をした後、確か22歳の時に地元の定時制高校に通うことにしました。普通高校2年生を修了扱いでの自主退学でしたので、定時制の3年生に編入する事が出来たのです。定時制高校は無事に卒業する事が出来ましたが、何をやっても中途半端な僕が卒業出来たのは、熱血漢な担任の先生のお陰だと思います。その先生には空手を教えて貰ったりもしました。先生は僕をその気にさせるのがとても上手で、乗せられると勢い付く僕は、先生に勧められて関西のとある大学の通信教育部に入る事になりました。僕はずっと高校中退と言っていましたが、実は逆学歴詐称で通信制ではありますが商業経済学部で少しだけ勉強もしました、いや、殆どしてないです(笑)。
勢いだけで入ってしまった大学も、結局は持たずに後期が始まる頃には辞めてしまいました。それでまた悪い仲間達とつるむようになったのです。
僕の経験で言うなら、いくら決意しても立ち直る事は難しいと言う事です。事実として僕の場合は、立ち直ろうとしては挫折、と言う事を何度も繰り返していました。高校を自主退学してからは、調理師学校、中華料理店、イタリア料理店、定時制高校と進学、仕事をする度に「これからは新しい自分に生まれ変わろう」と決意するものの、結局はなんだかんだと自分に都合の良い言い訳を見つけては挫折を正当化しようとしていました。その時に考えた挫折の理由は色々ありますが、とにかく自分が真面目に生きる事が、「情けなくカッコ悪い」ように感じていたのだと思います。ワル仲間は派手な車に乗って楽しそうでも、僕は自転車で定時制に通ったりしていましたから、ワル仲間と道ですれ違いざまに、異常に恥ずかしく、惨めに感じましたし、自分が落ちぶれてしまったような感覚に囚われたりしていたのだと思います。更に言えば、「世間は冷たく」「仲間は優しい」と感じていました。挫折を繰り返せば人は信用してくれなくなり、自分自身も自暴自棄になりがちです。そんな時でもワル仲間は挫折した僕を温かく迎え入れてくれるのです。
今冷静になって考えるなら、それは単に意志の弱い僕自身の「逃げ」だったと思えます。更に言ってしまえば、その時のワル仲間の優しさも、今思えば本当の優しさではなかったように思えます。僕も含めてその仲間達は、お互いに傷を舐め合う事で自分を慰めていたのかも知れません。あくまでも推測になりますが、立ち直ることで仲間が減るのが怖かったのかも知れません。
僕が偉そうな事を書く資格などありません。でも、自分自身の実体験から「ヤンチャもほどほどに」と心から言いたいです。面白くない環境、反抗心、カッコ良さ、理由は色々あるでしょうが、僕のように度を越してしまえば痛い目に遭うのは、自分や家族でしかありません。立ち直ろうと決意しても、まともな社会は冷たいですし、仲間は更生の足を引っ張ります。立ち直るためには相当のエネルギーが必要となります。逆に立ち直れなければ、暴力団かその関係者になってしまうだけです。
結局は、一般的な職業は一切身につかず、意志の弱い僕は、仲間に引き摺られるように借金の取立て屋さんの手伝いや、ややこしい仕事で小遣い稼ぎをしていました。ただ、だからと言ってその道で生きていくとは、どうしても考えられませんでした。何故かといえば、そのややこしい仕事が苦痛で仕方なかったからです。元々、不良に憧れていた僕ですから、任侠とか仁義というイメージに格好良さを感じていたのを否定はしません。彼らの羽振りの良さも羨ましい、カッコいいと感じていたのも事実です。
でも、実像は違った。結局は、人を騙したり、困っている人を更に追い詰めたり、そんな事でお金を得て羽振り良く振舞っているのです。あ!だからと言って、別に僕が善人だという事が言いたいのではありませんよ。ただ、そんな「人を泣かせる仕事」に加担する事が辛かったし、それを平気でやる周りが信じられなくなったのです。
結局、そういう仲間や仕事からも距離を置き、かと言って、定職に就く訳でもなく、パチプロとまでは言いませんが朝から晩までパチンコ屋さんに通うような、今で言うなら単なるプー太郎。これが何一つ包み隠さない丸裸の27歳までの僕でした。(ここまで自分で読み返してもあまりの酷さに絶句しますが、まだまだ続きますので最後までお付き合いくださいね)
次号に続く
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