なんつッ亭大将 古谷一郎 【私の履歴書】 シリーズ 「我が人生の歩み」 第8回・老いた両親の姿に帰郷を決意
人吉での生活は順調でしたが、肝心の修行の方はと言えば、あまり順調とは言えない状況でした。好来のご主人は決して不親切ではないのですが、根っからの職人肌で、全てが目分量というか、長年の経験で培ってきた「勘」で麺作りもスープ作りもしていたのです。例えば麺を作るときも、「小麦粉がこぎゃん位で、水がこぎゃん位」というように小麦粉が何キロに対して水が何リットルというようなレシピが存在していないのです。小麦粉も水の分量も毎回違うので覚えようにもなかなか覚えられない。毎日、天気も違えば、当然気温も湿度も違うので、レシピなど必要ないというのがご主人の言い分でしたが、そうなれば僕が自分でレシピを作るしかないと考えて、ご主人の目分量で分けられた小麦粉や水をこっそり計りに乗せて計測して、僕なりのレシピを作ってみました。それを元に麺を作らせてもらうのですが、ご主人からは毎回ダメ出し。毎回、「今日は麺が柔かね」「今日は固かね」とダメ出しの連続でしたので、能天気な僕もこの時は心が折れそうになりました。厳しい修行については、ある程度覚悟していました。でも実際は、辛さや厳しさや苦しさは全くないものの、戸惑いの連続だったのです。
戸惑いながらも、どうにか僕の修行も何とか形になって来たある日、その日は酒屋さんのバイトで、ジュースの自動販売機に飲み物の補充をしていました。ふと、道路に目をやると何やらお爺さんが乗っている車椅子をお婆さんが押して、のろのろとこちらに近づいて来るのを見付けたのです。
あれ?まさか?この時は正直驚きましたが、何とその老夫婦は僕の両親だったのです。両親の老け方が尋常じゃなかった事が本当にショックでした。両親ともに病気がちだったのは分かってはいたものの、これ程までに老け込んで弱っているとは思ってもいませんでしたし、秦野から遥か遠い人吉までわざわざ来てくれた嬉しさとが混じり合って、どんな反応をして良いのかが分からないくらいでした。
両親は、僕の人吉での姿を見て、昼間で人通りもあるというのに、ポロポロと涙をこぼしました。そんな両親を見て「ああ、僕は今まで本当に親不孝者だったのだな」と改めて考えさせられました。そして、やたらと老け込んでしまった親父が言いました。「そろそろ秦野に戻ってこないか」と。正直、本当に迷いました。何故なら僕は、好来に弟子入りをした時に「3年は頑張る」と宣言していたからです。まだ、一年も経っていません。でも親父の弱り切った姿を見て、「いつまでも人吉にいる訳にもいかないな」と考えるようになったのです。
正直言って、僕のラーメン修行は道半ば。少なくともご主人からの合格はもらっていません。でも、この時は少し考え方が変わって来ていました。どちらにせよ、自分で店を構える場合は、自分の味が必要となります。好来の暖簾を分けてもらう訳ではないですし、基礎は教えてもらったので、後はその基礎を元に僕の味を完成させて経験を積むしかない。ならば今後は独学で僕のラーメンを完成させれば良い。そう考えるようになったのです。
約束違反を承知の上で、僕は恐る恐る「一年で上がらせてもらっても大丈夫ですか?」とご主人に聞いてみました。すると、意外にもあっさりと「よかよ」と言ってくれたのです。きっと、こちらの事情も察してくれたのだと思います。そんな経緯があり、当初は三年を予定していた僕のラーメン修行は幕を閉じました。秦野を後にしてちょうど一年が過ぎようとしていた頃でした。
さて、地元である秦野に戻り、29歳でラーメン店を開業、という段取りをする訳ですが、とにかく僕には何もない!(笑)お金はもちろん、信用だって何一つない。この時に助けてくれたのが年老いた両親でした。
最初のお店を覚えている方はいらっしゃいますか?住宅街でゴミの集積所の目の前、とてもラーメン屋がありそうな場所ではありませんでした。そこはもともとは八百屋さん、その後はクリーニング屋さんでしたが、この時は空き家でした。お世辞にも好立地とは言い難かったですが、実のところ僕には場所を選ぶという余裕などありませんでした。両親ともに体調があまり良くありませんでしたから、家から歩いて通える距離、お金をかけたくない、というよりもお金がない、そして何より僕にも貸してくれる所は他にはなかったのです。(次号につづく)
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田原ふるさと公園野菜直売研究所0463-84-1281/そば処東雲0463-84-1282 https://www.kankou-hadano.org/pointinformation/pointinformationguide/point_tawarafurusatokouen.html |
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